はじめに
PTSDとは、Post-Traumatic Stress Disorderの略で、日本語では「心的外傷後ストレス障害」と呼ばれます。強い恐怖や無力感を伴う出来事を経験したあとに、その記憶が時間とともに自然に薄れていかず、現在の生活の中で繰り返しよみがえってしまう状態です。
PTSDは、単に「つらい出来事を思い出してしまう」というだけの病気ではありません。過去の出来事が、心と身体にとってはまだ終わっていないものとして残り続ける状態、と考えると理解しやすいかもしれません。頭では「もう終わったことだ」と分かっていても、身体はまだ危険の中にいるように反応してしまいます。突然胸が苦しくなる、動悸がする、眠れない、音や人の表情に過敏になる、特定の場所や会話を避ける、感情が麻痺したようになる、といった症状が起こります。
近年、うつ病に対する新しい治療として注目されているケタミン療法が、PTSDにも効果を持つ可能性が研究されています。ケタミンはもともと麻酔薬として長く使われてきた薬剤ですが、通常の麻酔よりも低い用量で投与した場合、気分の落ち込みや希死念慮を比較的短時間で改善する可能性があることが分かってきました。そして、PTSDにおいても、トラウマ記憶、過覚醒、抑うつ、不安、回避といった症状に対して効果があるのではないかと考えられています。
ただし、最初に重要な点をお伝えしておきます。PTSDに対するケタミン療法は、現時点で「確立された標準治療」とまでは言えません。うつ病、とくに治療抵抗性うつ病に対するケタミン療法と比べても、PTSDに関する研究はまだ数が限られています。肯定的な結果を示した研究もありますが、明確な効果を示せなかった研究もあります。そのため、この記事では、ケタミン療法を過大評価せず過度に持ち上げるのではなく、何が分かっていて、何が分かっていないのかを、できるだけ丁寧に整理していきます。
PTSDの症状について
PTSDを理解するうえで大切なのは、トラウマの記憶が通常の記憶とは少し違った形で残りやすいという点です。
通常の記憶は、「過去に起きた出来事」として整理されます。もちろん悲しい記憶や苦しい記憶であっても、時間が経つにつれて、ある程度は現在の自分から距離を置いて思い出せるようになります。ところがPTSDでは、記憶が過去のものとして十分に整理されず、まるで現在起きていることのように身体反応を伴ってよみがえります。
このような症状は、しばしば再体験症状、回避症状、過覚醒症状、気分や認知の変化のような形で現れます。
再体験症状とは、トラウマに関する記憶、映像、音、感覚が突然よみがえる症状です。フラッシュバックや悪夢もここに含まれます。本人にとっては単なる思い出ではなく、その場に引き戻されるような感覚を伴うことがあります。
回避症状とは、トラウマを思い出させる場所、人、会話、感情、身体感覚などを避ける症状です。避けることで一時的には楽になりますが、長期的には生活範囲が狭くなり、回復の機会が失われたり、社会的機能が低下してしまうことがあります。
過覚醒症状とは、神経が常に張りつめているような状態です。眠れない、物音に驚きやすい、怒りっぽくなる、集中できない、周囲を常に警戒してしまう、といった症状が含まれます。
認知や気分の変化も重要です。「自分が悪かった」「世界は危険だ」「誰も信じられない」といった考えが強くなったり、喜びや親しみを感じにくくなったりします。うつ病を合併することも少なくありません。
このようにPTSDは、記憶、感情、身体反応、人間関係、自己評価が複雑に絡み合う病気です。そのため治療も、単に不安を抑えるだけでは不十分なことがあります。トラウマ記憶そのものの扱い方、身体の過覚醒、抑うつ、回避、対人関係の変化などを総合的に見ていく必要があります。
PTSDの標準的な治療について
PTSDに対して、現在もっとも確立している治療は精神療法です。とくに、持続エクスポージャー療法、認知処理療法、EMDRなどのトラウマ焦点化精神療法が代表的です。
トラウマ焦点化精神療法とは、トラウマ体験そのもの、あるいはトラウマによって変化した考え方や身体反応を治療の中心に置く精神療法です。たとえば、「自分が悪かった」「もう誰も信用できない」「危険はいつでも起こる」といった認知を見直したり、安全な治療環境の中でトラウマ記憶に少しずつ触れ直したりします。
薬物療法としては、SSRIやSNRIと呼ばれる抗うつ薬が用いられます。SSRIとは、脳内のセロトニンという神経伝達物質の働きを調整する薬です。SNRIはセロトニンに加えてノルアドレナリンにも作用します。これらの薬は、PTSDの不安、抑うつ、過覚醒などを和らげることがあります。
一方で、標準治療を受けても十分に改善しない方がいます。心理療法に取り組みたい気持ちはあっても、トラウマ記憶に触れること自体が困難で進められない方もいます。抗うつ薬を十分な期間使っても効果が乏しい方や、副作用のために続けられない方もいます。
ケタミン療法が注目されているのは、まさにこのような背景があるためです。従来の治療で十分に改善しないPTSDに対して、これまでとは異なる脳の仕組みに働きかける可能性があるのではないか、と考えられているのです。
ケタミンはどのように脳に作用するのか
ケタミンの作用を理解するためには、グルタミン酸という神経伝達物質について知る必要があります。
脳の中では、神経細胞同士がさまざまな化学物質を使って情報をやり取りしています。セロトニン、ドパミン、ノルアドレナリンなどはうつ病などの精神疾患と関連する神経伝達物質としてよく知られています。近年、精神疾患との関連が盛んに研究されている神経伝達物質のうち、グルタミン酸は脳の中でもっとも重要な興奮性神経伝達物質の一つです。学習、記憶、感情反応、危険の察知などに深く関わっています。
ケタミンは、グルタミン酸の働きに関係するNMDA受容体という部位に作用します。NMDA受容体は、神経細胞が情報を受け取る入り口のようなものです。ケタミンはこの受容体を一時的に遮断することで、脳の神経可塑性を高める可能性があると考えられています。
神経可塑性とは、脳が経験によって変化する力のことです。脳は固定された機械ではありません。新しい体験や治療的な対話、感情などによって、神経細胞同士のつながり方が変わります。PTSDでは、危険を察知する脳のシステムが過敏になり、安全を感じるシステムが弱くなっていると考えられます。ケタミンは、この硬直した神経回路を一時的にゆるめ、治療的な再学習が起こりやすい状態を作る可能性があります。
特にPTSDでは、トラウマ記憶の再固定化という考え方が重要です。記憶は一度作られたら永久にそのまま保存されるわけではありません。思い出された記憶は、一時的に不安定になり、その後もう一度保存されると考えられています。この過程を再固定化と呼びます。もし治療の中で、トラウマ記憶が再び活性化されたときに、新しい安全な体験や別の意味づけが加われば、記憶の持つ苦痛や恐怖反応が変化する可能性があります。
ケタミン療法がPTSDに対して期待される理由の一つは、このような記憶の再学習や再固定化に影響する可能性があるからです。ただし、この仕組みはまだ研究段階であり、すべてが明確に証明されているわけではありません。
PTSD研究で使われる評価尺度について
研究結果を解釈するときには、「症状が改善した」と書かれていても、何をどのように測定したのかを理解する必要があります。PTSD研究では、以下の評価尺度がよく使われます。
まず、IES-Rという尺度があります。これはImpact of Event Scale-Revisedの略で、日本語では「改訂出来事インパクト尺度」と訳されます。トラウマに関連した侵入症状、回避症状、過覚醒症状を、患者さん自身が質問紙で評価するものです。たとえば、思い出したくないのに思い出してしまう、関連するものを避けてしまう、神経が高ぶっている、といった項目に答えます。点数が高いほど、トラウマに関連する苦痛が強いことを意味します。
次に、CAPSという尺度があります。これはClinician-Administered PTSD Scaleの略で、専門家が面接を行ってPTSD症状の重症度を評価するものです。患者さんの自己記入だけではなく、訓練を受けた評価者が症状の頻度や強さを確認していくため、PTSD研究では非常に重要な評価方法とされています。
また、PCL-5という尺度もあります。これはPTSD Checklist for DSM-5の略で、DSM-5(アメリカ精神医学会が発行する精神疾患の診断基準のこと)のPTSD症状に対応した自己記入式の質問紙です。研究だけでなく、臨床の経過観察でも使われることがあります。
うつ症状を評価するためには、MADRSという尺度がよく使われます。Montgomery-Åsberg Depression Rating Scaleの略で、抑うつ気分、悲観、不眠、食欲、集中力、希死念慮などを評価します。PTSDの方にはうつ病を合併する方も多いため、PTSD症状と抑うつ症状の両方を測ることが重要になります。
つまり、ケタミン療法の研究では、「PTSDそのものが良くなったのか」「うつ症状が良くなったために全体として楽になったのか」「その効果はどのくらい続くのか」を分けて考える必要があります。
2014年のFederらの研究:単回投与での速効性
PTSDに対するケタミン療法の研究で特に重要なのが、2014年にJAMA Psychiatryに掲載されたFederらの研究です。この研究は、慢性PTSDの患者さんに対して、ケタミンの単回点滴が有効かどうかを調べたランダム化比較試験です。
ランダム化比較試験とは、参加者をくじ引きのような方法で治療群と対象群に分ける研究です。治療の効果をできるだけ公平に見るための方法です。この研究では、ケタミンとミダゾラムが比較されました。ミダゾラムは鎮静作用を持つ薬で、単なる生理食塩水ではなく、ある程度「何か薬を投与された」と感じる可能性がある薬です。このような比較薬を使うことで、期待感だけによる効果をある程度調整しようとしています。
対象となったのは慢性PTSDの患者さん41名です。ケタミンは0.5mg/kgという用量で、40分かけて点滴投与されました。これは、うつ病に対するケタミン研究でもよく使われる用量です。
主な評価にはIES-Rが使われました。その結果、ケタミン投与後24時間の時点で、PTSD症状はミダゾラムよりも有意に改善していました。平均差はIES-Rで12.7点でした。点数だけを見ると分かりにくいかもしれませんが、IES-Rはトラウマ記憶による苦痛を幅広く評価する尺度ですので、12点以上の差は、臨床的にも意味のある変化である可能性があります。
さらに、この研究ではPTSD症状だけでなく、抑うつ症状も改善していました。PTSDの患者さんでは、うつ症状、不眠、意欲低下、罪悪感、希死念慮などが重なることが多いため、抑うつ症状の改善は生活全体の改善につながる可能性があります。
安全性については、ケタミン投与中に一過性の解離症状が見られました。解離症状とは、現実感が薄れる、身体から離れたように感じる、時間の感覚が変わる、自分が自分でないように感じる、といった体験です。ケタミンでは比較的よく見られる急性作用ですが、この研究では持続的で臨床的に重大な解離症状は認められなかったと報告されています。
この研究は、PTSDに対してケタミンが短時間で症状を軽減しうることを初めてランダム化比較試験で示した重要な研究です。一方で、対象者数は41名と多くはなく、単回投与の研究であるため、効果が長期的に続くかどうかは十分には分かりませんでした。
Rasmussenの指摘:効果を慎重に解釈する必要性
2015年にRasmussenは、JAMA Psychiatryでこの研究に対するコメントを発表しました。そこで指摘された重要な点は、比較薬であるミダゾラムでもかなり大きな改善が見られていたことです。
これは、ケタミンの効果がないという意味ではありません。実際にFederらの研究では、ケタミンはミダゾラムよりも優れていました。しかし、PTSDの治療研究では、期待感、治療環境、安全に見守られている感覚、点滴を受けるという非日常的体験なども症状に影響する可能性があります。
特にケタミンのように、投与中に独特の体験を生じる薬では、患者さんも医療者も「ケタミンが投与されたのではないか」と気づきやすくなります。これを盲検性の問題と呼びます。盲検性とは、研究参加者や評価者が、どちらの治療を受けているか分からないようにする仕組みです。盲検性が保たれにくいと、期待による効果が結果に影響する可能性があります。
そのため、ケタミン療法の研究では、単に「投与後に良くなった」だけではなく、どのような比較薬を使ったか、効果がどのくらい続いたか、評価者がどの程度盲検化されていたかを慎重に見る必要があります。
Rasmussenのコメントは、ケタミン療法を否定するものではなく、むしろ新しい治療を評価するときに必要な科学的慎重さを示したものと言えます。患者さん向けに言い換えるなら、「期待できる結果ではあるが、まだ結論を急ぎすぎてはいけない」ということです。
2021年のFederらの研究:反復投与での効果
2014年の研究では単回投与の効果が示されましたが、PTSDは慢性的に続くことが多い病気です。そのため、単回投与で一時的に良くなっても、それだけで十分とは言えません。そこで重要になるのが、2021年にAmerican Journal of Psychiatryに掲載されたFederらの反復投与試験です。
この研究では、慢性PTSDの患者さん30名を対象に、ケタミンまたはミダゾラムを2週間で合計6回投与しました。用量はケタミン0.5mg/kg、ミダゾラム0.045mg/kgで、2014年の研究と同様に、ミダゾラムが精神作用を持つ比較薬として使われました。
この研究で主な評価尺度として使われたのはCAPS-5です。先ほど説明したように、CAPS-5は専門家が面接でPTSD症状を評価する尺度であり、PTSD研究では非常に重視されます。
結果として、2週間後のCAPS-5の改善は、ケタミン群の方がミダゾラム群よりも有意に大きいものでした。具体的には、2週時点でケタミン群はミダゾラム群より平均11.88点低いCAPS-5スコアを示しました。これは、PTSD症状全体がかなり軽くなった可能性を示す結果です。
さらに、治療反応者の割合も注目されます。治療反応者とは、一定以上症状が改善した人を指します。この研究では、ケタミン群の治療反応者が67%だったのに対し、ミダゾラム群では20%でした。つまり、少なくともこの小規模研究では、ケタミン反復投与はかなり有望な結果を示しました。
ただし、効果の持続期間には注意が必要です。ケタミンに反応した人の中で、反応が失われるまでの中央値は27.5日でした。中央値とは、短い人から長い人まで並べたときに真ん中に来る値です。つまり、反応した方の多くでは、2週間の治療後もしばらく効果が続いたものの、永続的な効果とは言い切れないということです。
この研究は、PTSDに対するケタミン療法の可能性を大きく広げました。単回投与だけでなく、複数回の投与によってより明確な改善が得られる可能性が示されたからです。一方で、対象者数は30名と少なく、より大規模な研究が必要です。
2022年のAbdallahらの研究:大規模試験での限界
ケタミン療法について考えるうえで、肯定的な研究だけを見るのは適切ではありません。2022年にNeuropsychopharmacologyに掲載されたAbdallahらの研究は、PTSDに対するケタミン療法の限界を考えるうえで非常に重要です。
この研究は、抗うつ薬で十分に改善しなかったPTSDを持つ退役軍人および現役軍人158名を対象に行われました。参加者は、プラセボ群、低用量ケタミン群、標準用量ケタミン群に分けられ、4週間で合計8回の点滴を受けました。標準用量は0.5mg/kgで、これまでの研究と同様の用量です。
主な評価尺度はPCL-5で、補助的にCAPS-5やMADRSも使われました。結果として、PTSD症状については、ケタミン群がプラセボ群を明確に上回る効果は示されませんでした。つまり、患者さん自身が回答するPCL-5でも、専門家が評価するCAPS-5でも、PTSD中核症状に対する有意な優位性は確認されなかったということです。
では、なぜ2021年のFederらの研究では効果があり、2022年のAbdallahらの研究では明確な効果が出なかったのでしょうか。いくつかの可能性があります。
第一に、対象者の違いです。PTSDといっても、原因となるトラウマ、発症からの期間、併存するうつ病や物質使用、軍事外傷か民間外傷か、解離症状の有無などによって、病態は大きく異なります。
第二に、比較群の違いです。2021年の研究ではミダゾラムという精神作用を持つ比較薬が使われましたが、2022年の研究ではプラセボが使われました。研究デザインの違いは結果に影響します。
第三に、治療環境や評価尺度の違いです。PTSDは心理的文脈に強く影響される病気であり、点滴を受ける場面、治療者との関係、安全感、期待感が結果に影響する可能性があります。
このような違いを考えると、「ケタミンはPTSDに効く」と単純に言うことも、「効かない」と単純に言うこともできません。現時点では、「一部の慢性PTSDには有効である可能性があるが、すべてのPTSDに一貫して効果が示されているわけではない」と考えるのが妥当です。
ケタミン単独よりも、精神療法との組み合わせが重要かもしれない
PTSDに対するケタミン療法を考えるうえで、近年注目されているのが精神療法との組み合わせです。
PTSDは、トラウマ記憶と意味づけの病気でもあります。ケタミンが一時的に神経可塑性を高めたり、固定化された恐怖反応をゆるめたりする可能性があるとしても、その時間をどのように使うかが重要です。単に薬を投与するだけでなく、その後に安全な環境で体験を言語化し、感情を整理し、トラウマ記憶との関係を変えていくことが、より深い回復につながる可能性があります。
2025年には、Federらがケタミン点滴とWritten Exposure Therapy、つまり筆記曝露療法を組み合わせたオープンラベル試験を報告しています。筆記曝露療法とは、トラウマ体験について一定の構造の中で文章を書き、記憶や感情を整理してい精神療法です。オープンラベル試験とは、参加者も治療者もどの治療を受けているか分かっている研究です。ランダム化比較試験ほどエビデンスは強くありませんが、新しい治療の可能性を見るうえでは重要です。
この研究では、慢性PTSDで中等度から重度の症状を持つ患者さんに対して、2週間で6回のケタミン点滴と、5回の筆記曝露療法が行われました。
結果として、CAPS-5の平均点は治療前の41.6点から12週時点で20.8点に改善しました。治療反応者は69%で、6か月時点でも61.5%に持続的な反応が見られたと報告されています。
これは非常に期待される結果です。ただし、この研究には比較群がありません。つまり、ケタミンの効果なのか、筆記曝露療法の効果なのか、両者の相乗効果なのか、自然な経過や期待効果がどの程度関与したのかを厳密に分けることはできません。今後は、大規模なランダム化比較試験によって確認される必要があります。
それでも、この方向性は臨床的には非常に重要です。PTSDにおけるケタミン療法は、単に「薬でトラウマを消す」治療ではありません。むしろ、薬物によって一時的に心と脳の柔軟性が高まった状態を、精神療法による再学習にどう結びつけるかが重要になる可能性があります。
どのような方に向いている可能性があるか
PTSDに対するケタミン療法は、すべての方に最初から勧められる治療ではありません。現時点で考えられるのは、標準的な治療を十分に受けても改善が乏しい方、抗うつ薬が十分に効かない方、抗うつ薬の副作用が強い方、うつ症状や希死念慮を強く伴う方、心理療法に取り組みたいが症状が強すぎて進められない方などです。
特に、慢性化したPTSDで、長年にわたって過覚醒、回避、抑うつ、感情の麻痺が続いている方では、ケタミン療法が治療の突破口になる可能性があります。研究でも、急性期のPTSDやPTSD予防というより、慢性PTSDに対する治療としての可能性が主に示されています。
一方で、急性のトラウマ直後にケタミンを使えばPTSDを予防できる、という考えには慎重であるべきです。研究によっては、早期のPTSDや外傷直後の使用に関して否定的な結果もあります。トラウマ直後の脳は非常に不安定な状態にあり、その時期にケタミンがどのような影響を与えるかは、まだ十分に分かっていません。
また、精神病性障害の既往がある方、躁病や双極性障害の状態が不安定な方、重い物質使用障害がある方、血圧や心疾患など身体的リスクが高い方では、慎重な判断が必要です。ケタミンは投与中に血圧や脈拍を上げることがあり、解離症状や知覚変化を起こすこともあります。安全に行うためには、事前の診察、身体状態の確認、投与中のモニタリング、投与後の観察が不可欠です。
ケタミン療法で起こりうる体験
ケタミン投与中には、通常の意識状態とは異なる体験が起こることがあります。身体が軽く感じる、時間の流れが変わる、音や光の感じ方が変わる、自分を少し離れたところから見ているように感じる、過去の記憶や感情が浮かび上がる、といった体験です。
このような体験は、不安を感じる方もいれば、治療的な体験として受け取る方もいます。重要なのは、体験そのものを無理に良いものにしようとしないことです。ケタミン療法では、「特別な体験をすること」が目的ではありません。むしろ、投与中や投与後に生じた感情、身体感覚、記憶、考え方の変化を、治療者とともに安全に整理していくことが大切です。
PTSDの方にとって、コントロールを失う感覚は恐怖につながることがあります。そのため、治療前に十分な説明を受けるなどして、安心して治療を受けられる環境を作ることが大事です。
ケタミン療法は「トラウマを消す治療」ではありません
ケタミン療法について、患者さんが誤解しやすい点があります。それは、「ケタミンによってトラウマ記憶が消える」と考えてしまうことです。
PTSDの回復とは、記憶を完全に消すことではありません。起きた出来事そのものは変えられません。しかし、その記憶が現在の生活を支配する力を弱めることは可能です。思い出しても以前ほど身体が反応しない、過去の自分を責める気持ちが少しゆるむ、危険と安全を区別しやすくなる、人との関係を再び築けるようになる、という変化が回復です。
ケタミン療法は、このような回復の過程を助ける可能性があります。特に、長い間変わらなかった感情や身体反応に、短期間で変化が起こることがあります。その変化は、患者さんにとって「自分はもう変われない」という思い込みをゆるめるきっかけになるかもしれません。
しかし、ケタミンだけで生活全体が自然に立て直されるわけではありません。治療後にどのように過ごすか、どのように体験を振り返るか、どのように対人関係や日常生活に変化を取り入れるかが重要です。ケタミン療法は、心理療法や生活の再構築と組み合わせて考えるべき治療です。
現時点での医学的な位置づけ
現在の医学的な位置づけをまとめると、PTSDに対するケタミン療法は「有望ではあるが、まだ標準治療とは言えない治療」です。
2014年と2021年のFederらの研究は、慢性PTSDに対してケタミンが速効性を持ち、反復投与でより明確な改善が得られる可能性を示しました。特に2021年の研究では、CAPS-5での改善、治療反応率、抑うつ症状の改善が示され、臨床的にも注目される結果でした。
一方で、2022年のAbdallahらの大規模研究では、PTSD症状に対する明確な優位性は示されませんでした。この結果は、PTSDに対するケタミン療法の効果が、患者さんの背景や病態、併存症、治療環境によって大きく異なる可能性を示しています。
また、2023年以降のガイドラインでは、PTSDの第一選択は依然としてトラウマ焦点化精神療法であり、薬物療法ではセルトラリン、パロキセチン、ベンラファキシンなどの抗うつ薬が中心とされています。ケタミンは、少なくともPTSD単独の標準的な薬物治療として広く推奨される段階にはありません。
ただし、ガイドライン上の位置づけが慎重であることと、個々の患者さんにとって治療選択肢として意味がないことは同じではありません。標準治療で十分に改善しない慢性PTSD、重いうつ症状を伴うPTSD、治療抵抗性の場合には、慎重な判断のもとで検討される余地があります。
まとめ
PTSDは、過去のトラウマが現在の脳と身体に影響を与え続ける病気です。症状は、フラッシュバックや悪夢だけではなく、過覚醒、回避、感情の麻痺、自己否定、対人関係の困難、うつ症状など多岐にわたります。
ケタミン療法は、グルタミン酸系、NMDA受容体、神経可塑性、記憶の再固定化といった仕組みを通じて、PTSD症状を変化させる可能性があります。2014年の単回投与試験、2021年の反復投与試験では、慢性PTSDに対する速効性と症状改善が示されました。一方で、2022年の大規模研究ではPTSD中核症状への明確な優位性は示されず、研究結果は一貫していません。
したがって、PTSDに対するケタミン療法はを過大評価してはいけません。しかし、従来の治療で十分に改善しなかった方にとって、新しい回復の可能性を開く治療となるかもしれません。
大切なのは、ケタミンを「トラウマを消す薬」として考えるのではなく、心と脳が変化しやすくなる時間を作り、その時間を心理療法や安全な振り返りにつなげる治療として考えることです。PTSDの治療では、薬物だけでも、心理療法だけでもなく、その方の症状、背景、生活、身体状態、治療への準備性を総合的に見ながら、慎重に治療方針を立てることが重要です。
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参考文献
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