はじめに
ケタミンは、従来の抗うつ薬とは異なり、投与後数時間から翌日にかけて、うつ症状を改善する可能性がある治療薬として研究されています。その作用は、主にグルタミン酸のNMDA受容体を遮断することから始まると考えられてきました。しかし近年、オピオイド受容体やGABAなど、複数の神経伝達システムの関与も注目されています。
本記事では、2026年にJelenらが『The American Journal of Psychiatry』に発表した「Regional Blood Flow Signatures of Opioidergic Modulation of Ketamine in Major Depressive Disorder: A Randomized Crossover Study」をもとに、ケタミン投与中に脳の血流がどのように変化するのか、オピオイド受容体を遮断すると、その変化や抗うつ効果との関係がどう変わるのかを解説します。
「オピオイド受容体」とは何か
オピオイド受容体とは、痛み、安心感、報酬、ストレス反応などを調整する脳内システムで、モルヒネなどのオピオイドと呼ばれる麻薬が作用する仕組みとして知られています。
ケタミンの主たる作用メカニズムは、NMDA受容体への作用や神経可塑性によって説明されるので、ケタミンはオピオイドではありません。しかし、近年、ケタミンが持つ僅かなオピオイド受容体への作用が、抗うつ効果や希死念慮への効果に関係している可能性が示唆されています。
今回の研究で使用されたナルトレキソンは、オピオイド受容体の働きを遮断する薬です。研究者は、ナルトレキソンを先に投与してからケタミンを投与することで、オピオイド受容体を遮断した場合にケタミンの反応がどう変わるかを検討しました。
なお、日本国内では、ケタミンは「麻薬及び向精神薬取締法」上の麻薬に指定され、その鎮痛・鎮静効果から一般的には麻酔薬として使用されています。うつ病などの精神疾患へのケタミンの投与は、国内では適応外使用となります。
研究はどのように行われたのか
この研究では、26名のうつ病の患者さんが、2回のケタミン治療を受けました。
一方ではナルトレキソン50mgを内服した後にケタミンを投与し、もう一方ではプラセボ薬を内服した後にケタミンを投与しました。ケタミンは0.5mg/kgを40分かけて静脈内投与され、その間にMRIを用いて脳血流が測定され、治療後のうつ症状の変化も調べられました。
つまり、この研究は、
「オピオイド系を一時的にブロックした状態でも、ケタミン投与中の脳の変化や抗うつ効果は同じように現れるのか」
を調べた研究です。
うつ症状はどのように評価したのか
うつ症状の評価には、主にMADRSとQIDS-SRが用いられました。
MADRSは、医療者が面接を行い、悲しさ、意欲低下、睡眠、食欲、集中力、悲観的な考え、死にたい気持ちなど10項目を評価する尺度です。合計は0~60点で、点数が高いほど症状が強いことを表します。
QIDS-SRは、本人が回答する16項目の質問票です。合計は0~27点で、睡眠、気分、食欲、集中力、活力、自己評価、希死念慮などを評価します。
ナルトレキソンの有無で抗うつ効果に差はあったか
プラセボを内服してからケタミンを投与した条件では、MADRSの平均点は投与前の28.73点から、翌日に14.65点低下しました。平均では約51%の改善に相当します。
一方、ナルトレキソンを内服してからケタミンを投与した条件では、投与前の平均27.23点から10.50点低下し、改善率は約39%でした。二つの条件の改善幅には平均4.15点の差があり、統計学的にも有意でした。
つまり、オピオイド受容体を遮断してもケタミンの効果が完全に消えたわけではありませんが、抗うつ効果は約28%弱まったと解釈できます。
自己評価式のQIDS-SRは、プラセボ先行条件で平均6.54点、ナルトレキソン先行条件で平均5.73点低下しました。ただし、この差は統計学的に有意ではありませんでした。つまり、評価尺度によって結果が完全には一致していないため、「オピオイド受容体を遮断すれば必ず効果が低下する」と断定することはできません。
ナルトレキソンの有無で脳血流に差はあったか
今回の研究では、ケタミン投与中には前部帯状皮質の脳血流が有意に増加していました。前部帯状皮質は、脳の左右をつなぐ脳梁の周囲に位置し、感情、意欲、注意、葛藤の処理、身体感覚などに関わる領域です。
これが今回の論文の主たる評価項目の一つですが、ナルトレキソンの有無により、この領域の血流増加の程度に差は認められませんでした。したがって、オピオイド受容体を遮断しても、ケタミンによる脳の反応が一律に止まるわけではないと考えられます。
脳血流に差はなかったが、主観的体験に差があった
ナルトレキソンを使用しない条件では、ケタミン投与中の前部帯状皮質の相対的な血流増加が大きい人ほど、一時的な妄想様体験や知覚変容が強い傾向がありました。
しかし、ナルトレキソンを投与すると、血流増加とこれらの主観的体験との相関関係が崩れました。
つまり、ナルトレキソンは血流増加そのものを抑制しない一方で、脳血流の変化が実際の体験として表れる過程に影響した可能性があります。
結論:ケタミンの抗うつ効果には複数の神経伝達システムが協調している可能性が高い
研究者は、ケタミンによる血流変化の分布を、脳内受容体の分布を示す既存の地図と比較しました。その結果、ケタミンによる血流変化は、μオピオイド受容体とmGluR5というグルタミン酸受容体の分布との関連を示しました。
また、ナルトレキソンによって変化したパターンは、μオピオイド受容体、mGluR5に加えて、GABA-A受容体の一種であるα5サブタイプの分布とも関連していました。
この結果は、ケタミンの作用を「NMDA受容体を遮断する薬」という一つの説明だけでは捉えきれない可能性を示しています。グルタミン酸、GABA、オピオイド系が相互に影響しながら、抗うつ反応を形づくっている可能性があります。
まとめ
今回の研究では、ケタミンは気分や感情調節に関わる前部帯状皮質の血流を増加させました。オピオイド受容体をナルトレキソンで遮断しても、この血流増加そのものは明確には抑えられませんでした。
一方で、脳血流と知覚変容との相関関係はナルトレキソンによって崩れました。さらに、MADRSの改善幅は、ナルトレキソンによって14.65点から10.50点へ小さくなりました。
これらの結果は、ケタミンの抗うつ効果がグルタミン酸系だけで決まるのではなく、オピオイド系やGABA系を含む複数の仕組みの相互作用によって生じる可能性を示しています。
ただし、少人数の単回投与研究であり、現時点で治療前MRIを用いて効果を予測したり、オピオイド系だけで効果を説明したりすることはできません。ケタミン療法の効果と安全性を理解するには、今後さらに大規模で長期的な研究が必要です。
参考文献
Jelen L. A., O’Daly O., Zelaya F. O., Stone J. M., Young A. H., Mehta M. A. Regional Blood Flow Signatures of Opioidergic Modulation of Ketamine in Major Depressive Disorder: A Randomized Crossover Study. The American Journal of Psychiatry. 183(6):420–430. 2026.