はじめに
精神科では、患者さんの症状や経過を整理し、ICDやDSMなどの診断基準を参考にして診断を検討します。診断名が付くことで、これまでの研究から得られた知見を活用し、適切な治療法や注意すべき経過を考えやすくなります。ICDとDSMは、精神疾患を一定の基準で分類し、診断や情報共有を支えるための枠組みです。
しかし、診断名が分かれば、その患者さんについてすべて理解できるわけではありません。同じうつ病と診断された患者さんでも、症状が現れたきっかけ、傷つきやすい出来事、人との関わり方、心を支えてきたものは一人ひとり異なります。
たとえば、仕事で評価されなかったことをきっかけに抑うつ状態となった二人の患者さんがいるとします。一人は、「努力を認めてもらえなければ、自分には価値がない」と感じているかもしれません。もう一人は、「周囲に迷惑をかけてしまった」と強い罪悪感を抱いているかもしれません。表面に現れている症状が似ていても、その出来事が本人にとって持つ意味は同じではありません。
このような診断名だけでは捉えきれない、個別的な心の動きを理解しようとするのが力動精神医学です。
力動精神医学とは何か
力動精神医学は、患者さんに現れている症状だけでなく、その背景にある感情、願い、不安、葛藤、人間関係などのつながりを考える立場です。
「力動」という言葉は、日常ではあまり使われません。ここでいう力動とは、心の中にある複数の気持ちや願いが互いに影響し合い、その人の考え方や行動を動かしていることを意味します。
人の心には、いつも一つの気持ちだけが存在するわけではありません。周囲に頼りたいと思いながら、弱い自分を見せたくないと感じることがあります。仕事を辞めたいと思う一方で、辞めたら自分の価値が失われるように感じる人もいます。
こうした相反する気持ちの間で揺れることは、特別に異常なことではありません。しかし、本人がその葛藤に気づきにくかったり、どちらかの気持ちを強く抑え込んだりすると、不安、抑うつ、身体の不調、対人関係の問題などとして現れることがあります。
力動精神医学では、症状を単独で見るのではなく、「なぜこの時期に症状が現れたのか」「患者さんは何に傷ついたのか」「何を求め、同時に何を恐れているのか」と考えます。そして、現在の症状が、その人のこれまでの人生や人間関係の中でどのような意味を持っているのかを理解しようとします。
現代の力動的なアプローチでは、繰り返される対人関係、自分と他者の捉え方、感情の表し方、心を守る方法、過去の経験と現在とのつながりなどが重視されています。
ただし、力動精神医学は、すべての精神症状を心の葛藤だけで説明する考え方ではありません。精神症状には、脳の働き、遺伝的な要因、身体疾患、睡眠、薬剤、生活環境なども関係します。力動的な理解は、それらを否定するものではなく、患者さんを多面的に理解するための一つの視点です。
同じ診断名でも患者さんの悩みは異なる
ICDやDSMは、一定の症状や経過を持つ患者さんの共通点を整理するために役立ちます。共通の診断名を使うことで、医療者同士が情報を共有しやすくなり、どのような治療が有効である可能性が高いかを検討できます。
しかし、診断名は患者さんの人格や人生全体を表すものではありません。
同じうつ病と診断された患者さんでも、主な苦しさは異なります。何をしても楽しいと感じられない人もいれば、自分を責める考えが止まらない人もいます。身体が重く動けない人もいれば、焦りが強く、じっとしていられない人もいます。
さらに、症状が現れた心理的な背景も異なります。
長年、周囲の期待に応え続け、自分の希望を後回しにしてきた人が、職場での負担をきっかけに動けなくなることがあります。人から評価されることで自分の価値を保ってきた人が、昇進できなかったことをきっかけに、強い空虚感を抱くこともあります。
力動精神医学では、出来事そのものだけでなく、その出来事が患者さんにとってどのような意味を持ったのかを考えます。
同じ出来事を経験しても、受け止め方は人によって異なります。その違いには、これまでの経験、自分に対する見方、他者への期待、現在の人間関係などが関係しています。
このように、力動精神医学は、「何が起きたか」だけでなく、「その人が何を経験したか」を重視します。
心の葛藤と防衛機制
人の心には、同時には満たしにくい複数の願いや感情が生じることがあります。これを心の葛藤と呼びます。
たとえば、「人に頼りたいが、依存的だと思われたくない」「自分の意見を伝えたいが、相手に嫌われたくない」「親に怒りを感じているが、親を悪く思う自分を許せない」といった状態です。
葛藤している二つの気持ちを自分で理解できれば、どちらを大切にするかを考えたり、折り合いをつけたりできます。しかし、片方の気持ちを持つこと自体が受け入れにくい場合、その気持ちは意識されにくくなります。
そこで働くのが、防衛、または防衛機制と呼ばれる心の働きです。防衛機制とは、受け止めることが難しい感情や考えから、自分の心を守るための方法です。多くの場合、本人が意図的に行っているわけではありません。
たとえば、本当は深く傷ついているのに、「まったく気にしていない」と感じることで、苦痛から距離を取ることがあります。つらい出来事を感情から切り離し、理屈だけで詳しく説明することもあります。上司に対する苛立ちを、他の人に八つ当たりしてしまうのも防衛機制の一つです。
防衛機制は、単なる悪い癖ではありません。その人が大きな苦痛に圧倒されずに生活するために、これまで役立ってきた可能性があります。一方で、かつては自分を守っていた方法が、現在の環境では人間関係を難しくしたり、自分の感情を理解しにくくしたりすることがあります。
力動精神医学では、防衛を無理に取り除こうとするのではなく、まず「その方法が何から本人を守ってきたのか」を考えます。そのうえで、患者さんが自分の感情を少しずつ理解し、より負担の少ない方法で対処できるようになることを目指します。
転移:過去の人間関係は現在にも影響する
私たちは、これまでの人間関係を通じて、「自分はどのような人間か」「他者はどのような存在か」「人に頼ってもよいのか」といった感覚を形づくっていきます。
たとえば、困ったときに助けを求めても繰り返し拒まれた人は、成人後も「人に頼ると失望する」と感じやすいかもしれません。周囲の期待に応えたときだけ認められてきた人は、成果を出せないと、自分には価値がないと感じることがあります。
その結果、本当は支援を必要としているのに誰にも相談できなかったり、相手に嫌われることを恐れて過度に合わせたりすることがあります。親密な関係を求めているにもかかわらず、相手が近づくと傷つけられることが怖くなり、自分から距離を取る場合もあります。
こうした過去の人間関係から形づくられた期待や不安は、診察室の中にも現れることがあります。患者さんが医師の短い言葉を「見放された」と受け取ったり、治療者に完全に理解してもらえることを強く求めたりすることがあります。
過去の重要な人間関係で抱いた感情や期待が、現在の相手との関係の中でも繰り返されることを、精神分析では転移と呼びます。
転移は、患者さんだけに起こる特殊な現象ではありません。私たちは過去の経験をもとに、新しく出会った人がどのような人かを予測しているため、誰にでも起こり得る心の働きです。
力動精神医学では、診察中に生じる関係を、患者さんが人間関係の中で繰り返してきた苦しさを理解する手がかりとして扱います。治療者との関係を含めた対人関係のパターンを重視することは、現代の力動的なアプローチの特徴の一つです。
ただし、現在の反応をすべて幼少期の経験で説明することはできません。実際に現在の相手が配慮を欠いていたり、患者さんが不当に扱われていたりする場合もあります。
また、子ども時代の経験が成人後の人生を一方的に決めるわけでもありません。その後に経験する安全な人間関係や新しい環境によって、人の感じ方や関わり方は変化していきます。
診断と力動精神医学はどちらも必要である
ICDやDSMと力動精神医学は、患者さんを見るときに重視する部分が異なります。
ICDやDSMでは、症状の種類、程度、持続期間、生活への影響、これまでの経過などを整理し、多くの患者さんに共通する特徴から診断を検討します。
こうした診断分類があることで、医療者は同じ言葉で情報を共有でき、研究によって蓄積された治療法を患者さんの診療に活用できます。
一方、力動精神医学では、診断名だけでは十分に表せない個別的な部分に注目します。
同じうつ病であっても、なぜこの時期に症状を発症したのか、どのような出来事に傷つきやすいのか、どのような感情を表現しにくいのか、どのような人間関係を繰り返しているのかを考えます。
診断が治療の大きな方向を示すとすれば、力動的な理解は、その治療を目の前の患者さんに合わせて調整するために役立ちます。
したがって、力動精神医学はICDやDSMを否定するものではありません。診断だけを重視して患者さんを病名に還元することも、心理的な意味だけを重視して医学的な診断を軽視することも適切ではありません。
診断と力動精神医学は、どちらか一方が優先されるものではなく、患者さんの共通性と個別性をそれぞれ捉える相補的な関係にあります。
力動精神医学に含まれる主な学派
力動精神医学は、一つの統一された理論だけを指す言葉ではありません。フロイトが創始した精神分析を出発点としながら、その後、人間の心の異なる側面を重視する複数の学派が発展してきました。
精神分析、自我心理学、対象関係論、自己心理学は、それぞれ別の理論ではありますが、完全に切り離されているわけではありません。現代の精神科診療や精神療法では、患者さんの状態に応じて、これらの考え方を組み合わせながら理解することもあります。
精神分析
精神分析は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、ジークムント・フロイトによって創始された理論と治療法です。力動精神医学の出発点となり、後に生まれた自我心理学、対象関係論、自己心理学などにも大きな影響を与えました。
精神分析では、人の心や行動が、自分で意識できている考えだけによって決まるとは考えません。自分では十分に気づいていない感情、願い、不安、記憶などが、現在の考え方や行動、人間関係に影響している可能性を重視します。このように、自分では直接意識していない心の領域を無意識と呼びます。
たとえば、周囲から評価されたいと強く願っている一方で、その願いを自分では認めたくない人がいるとします。その人は、自分が評価を求めていることには気づかず、相手の何気ない反応を「自分を軽視している」と感じ、強い怒りや落ち込みを経験するかもしれません。
精神分析では、このような本人がまだ十分に気づいていない心の動きを、自由連想、夢、言い間違い、繰り返される人間関係、治療者との関係などから理解しようとします。
自由連想とは、話す内容をあらかじめ整理しすぎず、心に浮かんだことを、できるだけそのまま言葉にしていく方法です。そこに現れる話題のつながりや、特定の話題を避けたくなる気持ちなどを、患者さんと治療者が一緒に考えていきます。
標準的な精神分析では、通常、1回45~50分程度の面接を週3~5回行います。患者さんは寝椅子に横になり、治療者が視界に入らない状態で話す方法が伝統的に用いられてきました。治療期間には個人差がありますが、国際精神分析協会は、おおむね3~5年を一つの目安として示しています。実際の頻度や期間、寝椅子を使うかどうかは、患者さんの状態や治療機関によって異なります。
一方、精神分析の理論を用いながら、週1~2回程度、患者さんと治療者が向かい合って行う治療は、精神分析的精神療法または力動的精神療法と呼ばれます。現在の精神科臨床では、古典的な精神分析そのものよりも、このような頻度を調整した治療が行われることも少なくありません。
自我心理学
自我心理学は、精神分析から発展した学派の一つです。人の心の中にある欲求や葛藤だけでなく、感情や衝動を調整し、現実の状況に適応する心の働きを重視します。
ここでいう自我とは、日常で使われる「自我が強い」「自己中心的である」という意味ではありません。自分の気持ちや周囲の状況を把握し、衝動を調整しながら、現実に合った行動を選ぶ心の機能を指します。
たとえば、腹が立ったときに、すぐ相手を攻撃するのではなく、自分が何に傷ついたのかを考え、適切な言葉で伝えるためには、自我の働きが必要です。将来の目標のために目の前の欲求を我慢することや、不安を抱えながらも仕事や生活を続けることにも、自我の機能が関わります。
自我心理学が特に詳しく発展させた概念が、防衛機制です。防衛機制とは、受け止めることが難しい感情や葛藤によって心が圧倒されないように、自分を守る働きです。
防衛機制そのものは、異常なものではありません。誰もが日常的に使っています。しかし、限られた防衛機制に頼りすぎると、自分の感情を理解しにくくなったり、現実の人間関係に支障が生じたりすることがあります。
自我心理学では、「この人はなぜ問題のある行動をするのか」と考えるだけでなく、「この行動によって、どのような苦痛から自分を守っているのか」と考えます。そして、患者さんがこれまで使ってきた防衛を尊重しながら、感情をより安全に理解し、現実に合った方法で対処できるようになることを目指します。
対象関係論
対象関係論も、精神分析から発展した学派の一つです。
ここでいう「対象」とは、物を意味するのではなく、自分にとって重要な他者を意味します。子どもにとっては、親や養育者が代表的な対象になります。成人後には、配偶者、恋人、友人、上司、治療者なども重要な対象になり得ます。
対象関係論では、私たちが他者と関わった経験は、単なる過去の記憶として残るだけではなく、「自分はどのような人間か」「他者はどのような存在か」という心の中のイメージとして取り込まれると考えます。
たとえば、困っているときに受け止めてもらえる経験を重ねると、「自分は助けてもらう価値のある存在であり、他者は頼ることのできる存在である」という感覚が育ちやすくなります。
一方、求めるたびに拒絶されたり、相手の態度が極端に変化したりする経験が重なると、「自分は見捨てられる存在である」「他者は信頼できず、突然自分を傷つける存在である」と感じやすくなる可能性があります。
対象関係論は、特に境界性パーソナリティ障害の理解を進めるうえで大きな役割を果たしました。境界性パーソナリティ障害は、従来「境界性人格障害」とも呼ばれていた疾患で、感情や自己像、人間関係が大きく揺れやすいことを特徴とします。
対象関係論を発展させたオットー・カーンバーグは、境界性パーソナリティ障害では、自分や他者についての良いイメージと悪いイメージを、一人の人間の中に統合することが難しい場合があると考えました。そのため、相手を「完全に自分を理解してくれる理想的な人」と感じていた状態から、少し期待が満たされないだけで「自分を傷つける悪い人」と感じる状態へ、評価が大きく変化することがあります。
このように、自分や他者を極端に良い側面と悪い側面へ分けて捉える心の働きを分裂と呼びます。対象関係論は、境界性パーソナリティ障害にみられる不安定な自己像、見捨てられ不安、理想化と失望の繰り返しなどを、心の中の自己像と他者像が十分に統合されていない状態として理解する道を開きました。特にカーンバーグの理論は、境界性パーソナリティ障害の人格構造や重症度を理解するモデルと、その後の治療法の発展に影響を与えています。
ただし、対象関係論は、患者さんの苦しさをすべて親子関係だけで説明する理論ではありません。生まれつきの気質、脳の働き、幼少期以降の人間関係、現在の生活環境なども含めて理解する必要があります。
自己心理学
自己心理学は、精神分析医であるハインツ・コフートによって発展した学派です。葛藤や防衛だけでなく、「自分が一人のまとまった人間であるという感覚」がどのように育ち、どのように揺らぐのかを重視します。
自己心理学でいう自己とは、自分について考えた内容だけを指すものではありません。「自分は自分である」「過去から現在まで同じ自分が続いている」「自分には一定の価値がある」と感じられる、心のまとまりを意味します。
人が安定した自己を育てるためには、周囲の人から適切に理解され、認められる経験が必要だと自己心理学では考えます。
たとえば、子どもが何かを達成して喜んでいるとき、養育者がその喜びを受け止めることで、子どもは自分の価値や能力を実感しやすくなります。また、不安なときに頼ることのできる大人の存在や、尊敬し目標にできる相手の存在も、自己の発達を支えます。
自己心理学では、このように自己のまとまりを保つために必要となる他者の働きを、自己対象という言葉で表します。自己対象は特定の人物を指すだけでなく、その人との関係が自己を支える働きをしていることを意味します。
こうした経験が十分に得られなかったり、自分を支えていた関係や評価を失ったりすると、自尊心が大きく揺れたり、慢性的な空虚感を抱いたりすることがあります。周囲から称賛されている間は自信を保てても、批判や失敗によって、自分の価値がすべて失われたように感じる場合もあります。
自己心理学では、このような状態を単なる「承認欲求の強さ」や「自己中心性」として批判するのではありません。他者からの理解や承認を通して保たれていた自己が傷つき、まとまりを失いかけている状態として理解します。
治療では、治療者が患者さんの体験を外側から評価するのではなく、まず患者さんの立場からその体験を理解しようとする共感を重視します。ここでいう共感は、患者さんの考えにすべて賛成することではありません。その人がなぜそのように感じるのかを、患者さんの視点から丁寧に理解しようとする姿勢を意味します。
精神分析、自我心理学、対象関係論、自己心理学は、それぞれ心の異なる側面に注目しています。精神分析は無意識と葛藤、自我心理学は現実への適応と防衛機制、対象関係論は心の中の自己像と他者像、自己心理学は自己のまとまりと自尊心を重視します。
これらの学派は互いに排他的なものではありません。現代の力動精神医学では、一人の患者さんを理解するために、複数の学派の考え方を組み合わせることもあります。
おわりに
ICDやDSMによる診断は、多くの患者さんに共通する症状や経過を整理し、医学的な治療の方向性を考えるために役立ちます。一方で、診断名が同じであっても、患者さんが何に傷つき、どのような葛藤を抱え、どのように自分の心を守ってきたかは異なります。
力動精神医学は、こうした診断名だけでは捉えきれない患者さんの個別性を理解しようとする立場です。現在の症状を、その人の感情、願い、人間関係、これまでの経験とのつながりの中で考えます。
ただし、心理的な理解は一つの仮説であり、治療者が患者さんに一方的に押しつけるものではありません。患者さんとの対話を通じて確かめながら、その人にとって無理のない理解を一緒につくっていくことが重要です。
診断と力動精神医学は対立するものではありません。診断によって患者さんと他の患者さんとの共通点を捉え、力動精神医学によってその人固有の心のあり方を理解することで、医学的な根拠と個別性の両方を大切にした治療へつなげることができます。
次の記事では、力動精神医学の出発点となった考え方である精神分析について解説します。
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