はじめに
うつ病では、気分の落ち込みや意欲低下だけでなく、楽しさを感じにくくなること、集中力の低下、睡眠や食欲の変化など、さまざまな症状が現れます。また、過去の失敗や自分の欠点、将来への不安を何度も考え続ける「反すう」が、苦痛を長引かせることもあります。
十分な量と期間の抗うつ薬治療を複数回行っても、症状が十分に改善しない状態は、一般に治療抵抗性うつ病と呼ばれます。ケタミンは、こうしたうつ病に対して比較的速やかな改善をもたらす可能性がある治療として研究されています。
では、ケタミン投与後、脳の働き方にはどのような変化が起こるのでしょうか。2026年にLeesらは、治療抵抗性うつ病の患者さんを対象に、ケタミン投与前後の脳波を解析した研究を『Translational Psychiatry』に発表しました。本記事では、この論文をもとに、ケタミンが安静時の脳内ネットワークの結びつきをどのように変えるのか、症状改善と脳波変化はどの程度関係していたのかを解説します。
脳波で「脳のつながり」を調べるとは
脳波は、頭皮に電極を装着し、神経細胞の集団が作る微小な電気的変化を記録する検査です。心電図の脳バージョンと考えればわかりやすいです。脳波は、脳がどのようなリズムで活動し、離れた領域がどの程度連動しているかを調べるためにも使われます。
ただし、頭皮で記録される信号には、脳のさまざまな場所から届いた電気活動が重なっています。今回の研究では、96個の電極(心電図電極はは10個程度です)で記録した脳波を解析し、信号の発生源となる脳領域を推定しました。脳を直接撮影する検査ではありませんが、通常の脳波より詳しく、どの領域どうしが連動している可能性が高いかを検討できます。
研究者らが調べた「安静時機能的結合」とは、安静時に、離れた脳領域の活動がどの程度同期しているかを示す概念です。
本研究では、見かけ上の同期の影響を減らすため、「遅延位相同期」という指標が使われました。数値が高いほど、二つの領域の脳波リズムが一定の時間差を伴いながら強く連動していると解釈されます。
注目された二つの脳内ネットワーク
研究では、主にデフォルト・モード・ネットワークと前頭頭頂ネットワークが調べられました。
デフォルト・モード・ネットワークは、外部の課題に集中していないときに活動しやすく、自分について考えること、過去を思い出すこと、将来を想像することなどに関係します。この働きは自己理解に不可欠ですが、うつ病では結びつきが過度に強まり、否定的な自己評価や反すうから抜け出しにくい状態と関連する可能性があります。
前頭頭頂ネットワークは、注意を向ける、情報を一時的に保つ、計画を立てる、感情や行動を調整するといった認知的なコントロールに関係します。セントラルエグゼクティブネットワークとも呼ばれることがあります。
なお、脳領域の結合は、強ければ常に良く、弱ければ常に悪いわけではありません。必要な場面に応じてネットワークが柔軟に切り替わることが重要です。
研究デザインについて
参加したのは、治療抵抗性うつ病の患者さん24人と、精神疾患のない対照群34人でした。治療抵抗性うつ病群には、体重1kg当たり0.5mgのケタミンが1回、静脈投与されました。
脳波検査は、投与の24時間前と24時間後に行われました。安静時脳波を8分間記録し、そのうち目を閉じていた4分間を解析しました。対照群も48時間の間隔を空けて同じ検査を受けましたが、ケタミン投与は受けていません。
症状については、抑うつ症状、楽しさを感じにくい状態、反すうを複数の評価尺度で測定しました。脳波では、上記2つのネットワーク内およびネットワーク間の結合を調べました。
ケタミン投与前のうつ病患者の脳内ネットワークにみられた特徴
投与前の治療抵抗性うつ病群では、対照群よりも、デフォルト・モード・ネットワーク内の一部の結合が強くなっていました。具体的には海馬傍回と角回、中側頭回と角回の結びつきが強く、デフォルト・モード・ネットワークと前頭頭頂ネットワークの間でも、一部の結合が強くなっていました。
角回や海馬傍回は、自分に関係する情報、記憶、複数の情報の統合などに関係する領域です。こうした結合の強さが、「自分には価値がない」、「もう治らない」などの自己関連思考や反すうの持続に関係する可能性があります。ただし、脳波から個人の考えている内容を読み取れるわけではなく、集団平均として認められた特徴です。
ケタミン投与後、脳の結合は広く強まった
研究者らは当初、ケタミンによって、デフォルト・モード・ネットワーク内や、二つのネットワーク間の過剰な結合が弱まると予想していました。しかし、24時間後の結果はより複雑でした。
結果として予想に反して、治療抵抗性うつ病群では、デフォルト・モード・ネットワーク内、前頭頭頂ネットワーク内、さらに両ネットワーク間の複数の結合が広く増加しました。
これは「うつ病で強くなっていた反すうに関わる結合が正常化した」という予想されていた単純な結果ではありませんでした。
著者らは、投与後24時間の時点では、脳内の情報伝達やネットワークの再編成が一時的に活発になっていた可能性があると解釈しています。つまり、広い結合増加が、ケタミンによる新しいシナプス形成と関係している可能性として解釈したのです。ただし、この研究は脳内のシナプスを直接観察したものではありませんので、「結合増加はシナプス新生を示す」と証明されたのではなく、動物研究などを踏まえた仮説にとどまります。
ケタミン投与後には抑うつ症状も改善していた
なお、今回の論文の主眼ではありませんが、治療前後の抑うつ症状にも変化が認められました。医療者が抑うつ症状の重さを評価するハミルトンうつ病評価尺度では、平均点が15.58点から11.48点へ低下しました。平均4.10点、割合にすると約26%の低下です。この尺度は点数が高いほど症状が重いため、参加者全体では、1回の投与から24時間後に抑うつ症状が軽くなったことを意味します。この変化は統計学的にも有意でした。
別の抑うつ評価尺度であるQIDSでも、平均13.86点から9.68点へ低下しました。平均4.18点、約30%の低下です。異なる尺度の両方で改善が確認された点は重要です。
脳波の変化と抑うつ症状の変化は相関しなかった
今回の研究では、投与前後の結合変化量と、ハミルトンうつ病評価尺度の改善量との間に有意な関連はありませんでした
つまり、24時間後に脳内ネットワークの結合が増え、同時に症状も改善しましたが、結合が大きく増えた人ほど症状が大きく改善したわけではありません。現時点では、脳波変化を測定して個人の治療効果を判断できる段階ではありません。
まとめ
この研究では、治療抵抗性うつ病の患者さん24人に0.5mg/kgのケタミンを1回静脈投与し、24時間前後の脳波と症状を比較しました。
投与24時間後、ハミルトンうつ病評価尺度は15.58点から11.48点へ、QIDSは13.86点から9.68点へ低下し、快楽消失や反すうにも改善がみられました。同時に、デフォルト・モード・ネットワークや前頭頭頂ネットワークの内部、および両者の間で、複数の機能的結合が増加しました。
ただし、結合変化の大きさと抑うつ症状の改善量には明確な相関がありませんでした。今回の結果は、ケタミンが24時間以内に症状と脳内ネットワークの両方へ影響する可能性を示す一方、その仕組みは「一つの異常を元に戻す」といった単純なものではないことを示しています。
今後、投与直後から数日後、反復治療後まで脳波を追跡する研究により、脳の再編成と治療効果の関係がさらに明らかになることが期待されます。
参考文献
Lees T, Scott JN Jr, Boyle BW, Esfand SM, Linton SR, Miller C, Li M, Woronko SE, Dunayev R, Bogdanov M, Bolton P, Li S, Meisner RC, et al. Modulatory effects of ketamine on EEG source-based resting state connectivity in treatment resistant depression. Translational Psychiatry. 16(1). 2026.