はじめに
治療抵抗性うつ病に対する新しい治療として、エスケタミン点鼻薬やケタミン注射が注目されています。しかし、「エスケタミンとケタミン注射剤は何が違うのか」「一般的な抗うつ薬と比べて、長期的な効果や安全性はどうなのか」と疑問に感じる方も多いと思います。
本記事では、2026年にLeeらが『Journal of Affective Disorders』に発表した「Comparative effectiveness and safety of esketamine versus injectable racemic ketamine and oral antidepressants for major depressive disorder: A population-based target trial emulation」をもとに、エスケタミン、ケタミン注射剤、経口抗うつ薬の効果と安全性の違いについて解説します。
この研究は、米国の大規模な医療データを用いて、実際の診療を受けたうつ病の患者さんを比較したものです。研究の結果、エスケタミンは経口抗うつ薬と比べて希死念慮や自殺企図などのリスクが低かった一方、ケタミン注射剤と比べると、いくつかの精神症状や心停止のリスクが高いという関連が認められました。ただし、これは無作為化比較試験ではなく、治療そのものが原因でこれらの差が生じたと断定できる研究ではありません。
エスケタミンとラセミケタミンの違い
ケタミンという物質には、立体構造が鏡写しの関係にあるR体とS体があります。右手と左手のように、基本的な構造は似ていますが、向きが異なる分子です。
一般に「ラセミ体ケタミン」と呼ばれる薬剤には、R体とS体がほぼ同じ割合で含まれています(以下、ラセミ体ケタミンをケタミン注射剤と呼びます)。一方、エスケタミンはS体だけを取り出した薬剤で、点鼻薬として発売されています。本研究では、エスケタミンとケタミン注射剤、さらに経口抗うつ薬の3つが比較されました。
両者は同じケタミン系の薬剤ですが、含まれる成分、投与方法、用量、吸収のされ方、治療が行われる医療環境などが異なります。そのため、「同じ系統の薬だから効果や安全性も同じ」とは限りません。
治療抵抗性うつ病とは
治療抵抗性うつ病とは、一般に、十分な量と期間で複数の抗うつ薬を使用しても、十分な改善が得られないうつ病を指します。
この状態では、気分の落ち込みだけでなく、意欲の低下、不眠、不安、集中力の低下、希死念慮などが長く続くことがあります。従来の抗うつ薬を変更したり、別の薬を追加したりしても改善が乏しい場合には、修正型電気けいれん療法、反復経頭蓋磁気刺激療法、ケタミン療法などが検討されることがあります。
今回の研究では、少なくとも2種類の系統の経口抗うつ薬を処方された治療抵抗性うつ病の患者さんが研究対象となりました。
研究デザインについて
研究では、2018年から2024年までに米国で診療を受けた成人のうつ病患者の医療データが使用されました。対象となったのは、エスケタミンを開始した4,505人、ケタミン注射剤を開始した19万7,694人、経口抗うつ薬を使用した88万7,220人です。
ここから年齢、性別、既往歴、併存疾患など、治療の選択とその後の経過の両方に影響し得る情報を用いて、背景が似た患者さん同士を比較しました。
ケタミンの臨床試験では、MADRSやHAM-Dといったうつ病評価尺度が何点下がったかを調べることが多いです。これらは、抑うつ気分、不眠、意欲の低下、希死念慮などの症状を点数化し、うつ病の重症度を評価する尺度です。
しかし、今回の研究は、評価尺度の平均点の変化を比較した研究ではありません。
主に調べられたのは、治療開始後に希死念慮、自殺企図、全般性不安障害、不眠、心停止などが診療記録上で確認されるリスクです。
結果は「ハザード比」という数値で示されました。ハザード比が1であれば、比較した2群のリスクは同程度です。0.80であれば相対的に20%低く、1.50であれば相対的に50%高いと解釈します。
エスケタミンとケタミン注射剤の比較
背景が似た患者さん同士を比較した結果、エスケタミンを開始した群では、ケタミン注射剤を開始した群よりも、希死念慮が記録されるリスクが24%高くなっていました。
全般性不安障害については、エスケタミン群のリスクが55%高く、不眠については25%高くなっていました
心停止についても、エスケタミン群のリスクは57%高くなっていました。
これらの結果だけを見ると、今回評価された長期的な転帰については、ケタミン注射剤のほうがエスケタミンよりも良好な効果・安全性プロファイルを示したことになります。
ただし、「ケタミン注射剤を選べば、必ずエスケタミンより良い結果になる」という意味ではありません。実際の治療では、投与量、投与間隔、投与経路、併用薬、治療開始時の症状、身体疾患などが結果に影響します。今回の研究は、これらをすべて同じ条件に統一して行った直接比較試験ではありませんので、結果の解釈には慎重になる必要があります。
エスケタミンと経口抗うつ薬の比較
治療抵抗性うつ病の患者さんが経口抗うつ薬を使用した場合と比べると、エスケタミン群では希死念慮のリスクが11%低くなっていました
自殺企図のリスクは29%低く、全般性不安障害のリスクも18%低くなっていました。
この結果は、複数の経口抗うつ薬を使用しても改善が乏しい患者さんの一部では、エスケタミンが希死念慮や自殺企図、不安に関する長期的な転帰を改善する可能性を示しています。
一方、心停止のリスクは経口抗うつ薬群よりも高く、相対的には約2.1倍、すなわち109%高いという結果でした
心停止の結果はどのように受け止めるべきか
「心停止のリスクが約2倍」と聞くと、非常に危険な治療のように感じるかもしれません。しかし、この数値を解釈する際には注意が必要です。
第一に、ハザード比だけでは、各群における絶対的な発生確率は分かりません。もともとの発生頻度が非常に低い場合、相対的なリスクが2倍でも、実際に増加する人数は小さい可能性があります。
たとえば、仮に発生率が1万人に1人から2人になった場合にも、相対的には2倍です。一方、100人に1人から2人になった場合も相対的には2倍ですが、臨床的な意味は異なります。そのため、安全性を判断するには、相対リスクだけでなく絶対リスクも確認する必要があります。
第二に、この研究は診療記録を用いた観察研究です。エスケタミンを選択された患者さんには、経口抗うつ薬群とは異なる重症度、身体的リスク、医療機関への通院頻度などが残っていた可能性があります。
第三に、「心停止が治療直後に起きた」「エスケタミンが直接の原因だった」と確認した研究ではありません。治療開始後の観察期間に、診療情報として心停止が記録されるリスクを比較した結果です。
したがって、この所見は無視すべきではありませんが、エスケタミンが心停止を直接引き起こすことを証明した結果でもありません。今後、投与条件を統一した前向き研究や、無作為化された直接比較試験での検証が必要です。研究者らも、今回の結果を確認するためには、治療法を直接比較する臨床試験が必要であると述べています。
この研究から分かること、分からないこと
この研究の大きな長所は、数千人から数十万人規模の実臨床データを使い、比較的まれな転帰も含めて検討した点です。通常の臨床試験では対象人数が限られるため、長期的でまれな安全性上の問題を十分に評価できないことがあります。
今回の研究からは、エスケタミンは経口抗うつ薬と比べて希死念慮、自殺企図、全般性不安障害のリスクが低い一方、ケタミン注射剤と比べると、希死念慮、不安、不眠、心停止のリスクが高いという関連が示されました。
一方、今回の結果から、どの治療がすべての患者さんに最も適しているかまでは判断できません。
この研究は、うつ病評価尺度が何点改善したか、効果が何時間で現れたか、寛解した人が何%だったか、効果がどのくらい持続したかを直接比較したものではありません。希死念慮や不安に関する診断が記録されたリスクが低かったとしても、それだけで抑うつ症状全体に対する効果が優れているとは断定できません。
また、診断名が医療記録に入力される頻度は、患者さんの実際の症状だけでなく、通院頻度や診察の詳しさにも左右されます。エスケタミンやケタミン注射剤を受ける患者さんは、経口薬だけを受ける患者さんより頻繁に医療機関を訪れる可能性があり、その分だけ症状や有害事象が記録されやすいことも考えられます。
まとめ
2026年に発表された大規模な医療データ研究では、エスケタミンは治療抵抗性うつ病に対する経口抗うつ薬と比べ、希死念慮のリスクが11%、自殺企図が29%、全般性不安障害が18%低いという関連が認められました。一方、心停止のリスクは約2.1倍でした。
ケタミン注射剤と比べると、エスケタミン群では希死念慮が24%、全般性不安障害が55%、不眠が25%、心停止が57%高いという結果でした。
この研究は、実臨床における長期的な比較を考えるうえで重要ですが、観察研究であり、因果関係を確定するものではありません。エスケタミン、ケタミン注射剤、経口抗うつ薬には、それぞれ異なる特徴と限界があります。
治療を検討する際には、研究結果の一部分だけで判断せず、期待できる効果、身体的なリスク、治療環境、これまでの経過を含めて医師と相談することが大切です。
参考文献
Lee C.-H. J., Qian Y., Yu W., Cusin C., Ma K. S.-K. Comparative effectiveness and safety of esketamine versus injectable racemic ketamine and oral antidepressants for major depressive disorder: A population-based target trial emulation. Journal of Affective Disorders. 406. 2026.