はじめに

ケタミンは、もともと麻酔薬として使用されてきた薬剤です。一方、近年では麻酔に使用するよりも少ない量を投与することで、うつ病の症状や自殺念慮を比較的速やかに改善させる可能性があることが知られるようになりました。

しかし、ケタミンがなぜ短時間でこうした変化をもたらすのかについては、まだ十分には解明されていません。

その手がかりの一つとして研究されているのが、私たちの身体に備わっている**「ストレスへの反応システム」**です。

2026年、Chooらは医学誌『Journal of Affective Disorders』に、

Increased morning cortisol after ketamine treatment for suicidal depression: Exploratory report from a randomized trial

という論文を発表しました。

この研究では、自殺念慮を伴ううつ病患者さんにケタミンを投与した前後で、ストレス反応に関係するホルモンであるコルチゾールがどのように変化するかが調べられました。

その結果、ケタミン投与から24時間後には、起床直後のコルチゾールが上昇していたことが示されました。

「うつ病の治療をしたのに、ストレスホルモンが増えるのは悪いことではないのか?」

そう感じる方もいるかもしれません。

しかし、コルチゾールは単純に「少ないほどよいホルモン」ではありません。ストレスに対応したり、朝に身体を活動できる状態へ切り替えたりするためにも必要なホルモンです。

今回の研究は、ケタミン治療と身体のストレス反応との関係を考えるうえで興味深い結果を示しています。

この記事では、この研究をもとに、ケタミン治療によって朝のコルチゾールがどのように変化したのか、その変化にはどのような意味がある可能性があるのかについて解説します。


コルチゾールとは?|身体のストレス反応を支えるホルモン

コルチゾールは、副腎という臓器から分泌されるホルモンです。

一般には「ストレスホルモン」と呼ばれることが多いため、

コルチゾール=身体に悪いもの

という印象を持たれることがあります。

しかし、本来のコルチゾールは身体を守るために必要なホルモンです。

たとえば、危険な状況や大きな負担に直面したとき、私たちの身体はエネルギーを利用しやすい状態にしたり、血圧や代謝を調整したりして、その状況に対応しようとします。コルチゾールは、こうしたストレスへの適応に関わっています。

また、コルチゾールには一日の中で分泌量が変化する日内リズムがあります。

一般的には夜間には低くなり、朝になると高くなります。さらに、目を覚ましたあとにはコルチゾールが上昇する反応がみられます。

この起床に伴う変化をコルチゾール覚醒反応(Cortisol Awakening Response:CAR)と呼びます。

今回の研究では、

  • 起床直後
  • 起床30分後

の2回、唾液を採取してコルチゾールが測定されました。

ここで重要なのは、「起床時のコルチゾール値」と「コルチゾール覚醒反応」は同じものではないという点です。

起床時コルチゾールは、文字どおり目を覚ました直後の値です。

一方、コルチゾール覚醒反応は、目を覚ましたあとにコルチゾールがどの程度変化したかを示しています。

今回の研究を理解するうえでは、この違いが重要になります。


うつ病や自殺念慮ではストレス反応の仕組みが乱れることがある|HPA軸について

私たちがストレスを受けたとき、脳と身体は連携して対応します。

その中心的な仕組みの一つが**HPA軸(視床下部―下垂体―副腎系)**です。

名前だけを見ると難しく感じますが、簡単にいえば、

脳がストレスを感知し、副腎へ指令を送り、コルチゾールの分泌を調節する仕組み

です。

大きなストレスが加わると、脳の視床下部から始まる信号が下垂体、副腎へと伝わり、最終的にコルチゾールが分泌されます。一方、コルチゾールが十分に分泌されると、その情報が脳側へ戻り、必要以上に反応が続かないよう調節されます。

つまり、単純にコルチゾールの量だけを見るのではなく、

必要なときに適切に分泌し、必要がなくなれば反応を弱められること

が重要です。

今回の論文でも、うつ病や自殺念慮・自殺行動にはHPA軸の異常が関係している可能性が背景として説明されています。

興味深いことに、うつ病では必ずコルチゾールが高くなるわけではありません。

研究によってはコルチゾールが過剰になっている状態が報告される一方、反対に反応が弱くなっている状態も報告されています。

コルチゾール覚醒反応についても同様です。強すぎる反応だけでなく、弱すぎる反応も心理社会的ストレスや健康上の問題と関連する可能性があります。

したがって、

「コルチゾールが高い=ストレスが強い」「コルチゾールが低い=健康」

と単純に考えることはできません。

研究者が注目しているのは、むしろストレスに対してHPA軸が適切に反応できているかという点です。


今回の研究はどのように行われたのか

今回の報告は、もともとケタミンが自殺念慮に及ぼす作用を調べるために行われたランダム化比較試験のデータを用いた探索的研究です。

ランダム化比較試験とは、研究参加者を無作為に複数の治療群へ振り分け、治療効果を比較する研究方法です。

対象となったのは、18~65歳の大うつ病性障害の患者さん80人でした。

さらに、この研究ではSSI(Scale for Suicidal Ideation)という自殺念慮を評価する尺度で4点以上であることが参加条件とされていました。

SSIとは、「死にたいという考えがどの程度あるか」「その考えをどの程度具体的に持っているか」など、自殺念慮の程度を医療者が評価するための尺度です。

研究参加者は無作為に、

ケタミン 0.5mg/kg

または、

ミダゾラム 0.02mg/kg

のいずれかを40分かけて静脈内投与されました。

ケタミン0.5mg/kgは、麻酔に使用する量より少ない量です。

比較対象として使用されたミダゾラムは鎮静作用を持つ薬剤です。単なる生理食塩水を比較対象にするのではなく、一定の鎮静作用を持つ薬剤と比較することで、患者さんがどちらの治療を受けたのか分かりにくくする目的があります。

コルチゾールについては、治療前と治療24時間後の朝に、

起床直後と起床30分後

の2回、唾液が採取されました。

もとの研究参加者は80人でしたが、唾液量が不十分だった場合や採取手順を満たさなかった場合などを除き、最終的なコルチゾール解析には63人(ケタミン群31人、ミダゾラム群32人)のデータが使用されました。

つまり今回の研究では、

「ケタミン治療の前後で朝のストレス反応システムに変化が生じるか」

が調べられたことになります。


ケタミン投与24時間後には、起床時のコルチゾールが上昇した

研究で最も明確に認められた変化は、起床直後のコルチゾールの上昇でした。

ケタミン群では、起床直後のコルチゾールの対数変換値が、

治療前:平均0.42
治療24時間後:平均0.80

へ上昇しました。

一方、ミダゾラム群では、

治療前:平均0.97
治療24時間後:平均0.77

であり、統計学的に明確な上昇は認められませんでした。

ケタミン群とミダゾラム群を比較すると、治療前から24時間後までの起床時コルチゾールの変化には統計学的に有意な差が認められています(t=−3.15、p=0.0025)。

「p=0.0025」という数字は、今回のような群間差が偶然だけで生じたと仮定した場合、そのデータ以上に極端な結果が得られる確率が非常に低いことを示しています。

したがって、この研究から比較的明確に言えることは、

ケタミンを投与された患者さんでは、24時間後の起床時コルチゾールが上昇した

という点です。

また、この変化が確認されたのは投与直後ではなく24時間後です。

ケタミンでは投与中から投与直後に、一時的な解離症状、つまり現実感が変化したり、自分と身体が離れて感じられたりするような感覚が現れることがあります。

今回確認されたコルチゾール上昇は、そうした急性の作用が通常すでに消失している時間帯に認められています。著者らもこの点を研究の特徴として挙げています。

コルチゾール覚醒反応そのものが強くなったわけではない

ここは今回の研究を読むうえで特に重要です。

ケタミンによって増えたのは、主として起床した瞬間のコルチゾール値です。

一方、起床直後から30分後までにコルチゾールがどの程度変化するかを表す**コルチゾール覚醒反応(CAR)**については、ケタミン群で明確な増加は認められませんでした。

むしろ両群を合わせた解析では、治療前から治療後にかけてCARは約12%低下していました。

したがって今回の結果を、

「ケタミンによってコルチゾール覚醒反応が強くなった」

と表現するのは正確ではありません。

より正確には、

「ケタミン投与24時間後に、起床時のコルチゾール値が上昇した」

という結果です。


コルチゾールの変化と自殺念慮・うつ症状の改善にはどのような関係があったのか

次に研究者らは、

コルチゾールが大きく上昇した患者さんほど、自殺念慮も大きく改善したのか

を調べました。

その結果、起床時コルチゾールの上昇が大きい人ほど、自殺念慮が低下する傾向がみられました。

両者の相関係数は、

r=−0.25

でした。

相関係数とは、2つの変化がどの程度一緒に起こるかを示す数値です。今回の−0.25という値は、著者らによれば小~中程度の関連にあたります。

しかし、統計学的な検定では、

p=0.052

でした。

一般的な医学研究ではp<0.05を一つの目安として統計学的有意差を判断することが多いため、今回の結果はその基準にはわずかに届きませんでした。

つまり、

「コルチゾールが上昇した人ほど自殺念慮が改善した」と結論づけることはできません。

関連を示唆する傾向が認められた、という段階です。

また、起床時コルチゾールの上昇とうつ病全体の重症度の改善との間には、明確な関連は認められませんでした。

この点も重要です。

今回の研究は、

「ケタミンが効くとコルチゾールが上がる」

ことを証明した研究ではありません。

確認されたのは、

ケタミン治療後に起床時コルチゾールが上昇した

という現象であり、その変化が治療効果そのものを表しているかどうかは、まだ分かっていません。


なぜコルチゾールの上昇がストレスへの抵抗力と関係する可能性があるのか

「ストレスホルモンであるコルチゾールが増えた」と聞くと、治療によって身体のストレスが増えたように感じられるかもしれません。

しかし、著者らは別の可能性について考察しています。

それがストレス・レジリエンスです。

レジリエンスとは、ストレスをまったく感じなくなることではありません。

大きな負担が生じたときに適切に反応し、その後に元の状態へ戻っていく能力と考えると分かりやすいでしょう。

たとえば、運動すると心拍数や血圧が上がります。

だからといって、「運動によって心拍数が上がったので身体が悪化した」とは限りません。運動に合わせて心拍数を上昇させること自体は、身体に必要な反応です。

ストレス反応も同じように、

反応が起こること自体ではなく、その反応が状況に応じて適切に調節されているか

が重要と考えられます。

今回の論文では、過剰でも長時間持続するものでもないコルチゾールの上昇が、ストレスへの抵抗力と関連する可能性を示した先行研究に触れています。

そのため著者らは、ケタミン治療24時間後に観察された起床時コルチゾールの上昇について、ストレスへの適応能力の変化と関係している可能性を提示しています。

ただし、これは今回の研究で直接証明されたことではありません。

今回測定されたのはコルチゾールと症状の変化であり、「ストレスへの抵抗力」そのものを直接測定したわけではないからです。

したがって、

ケタミンがコルチゾールを上昇させることでレジリエンスを高めた

とまでは言えません。

今回の結果から生まれた、今後検証すべき仮説の一つと考えるのが適切です。


この研究から「コルチゾールが上がればケタミンが効く」とはまだ言えない

今回の研究は興味深い結果を示していますが、著者ら自身も探索的研究であることを強調しています。

探索的研究とは、すでに確立された結論を確認するというより、

「このような関係があるのではないか」

という新しい仮説を見つけるための研究です。

今回の結果を解釈する際には、いくつかの点に注意する必要があります。

まず、もともとの研究参加者は80人でしたが、コルチゾールの解析が行われたのは63人でした。

また、コルチゾールは起床直後と30分後という限られた時間点で測定されています。そのため、一日を通したコルチゾール分泌全体がどのように変化したのかまでは分かりません。

さらに、睡眠そのものの変化について詳細な客観的測定が行われていたわけではありません。

ケタミンが睡眠や概日リズムに影響し、その結果として翌朝のコルチゾールが変化した可能性なども、今回の研究だけでは十分に区別できません。

そして最も重要なのは、

コルチゾールの上昇と自殺念慮の改善との関連が統計学的に有意ではなかった

という点です。

相関係数はr=−0.25、p=0.052であり、「関係がある可能性」を示唆してはいるものの、今回の研究だけで両者の関係を確立することはできません。

また、コルチゾール上昇が自殺念慮の改善を引き起こしたのかも分かりません。

たとえば、

ケタミン
↓
コルチゾールの変化
↓
自殺念慮の改善

という流れが存在する可能性もあります。

一方で、

ケタミン
↓
脳内でさまざまな変化が起こる
↓
コルチゾールと自殺念慮がそれぞれ変化する

という可能性もあります。

今回の研究だけでは、この因果関係を区別できません。

したがって現時点では、血液や唾液のコルチゾールを測定して、

「この患者さんにはケタミンが効きそうだ」
「治療がうまくいっている」

と判断できる段階ではありません。

コルチゾールをケタミン治療の効果予測や治療判定のバイオマーカーとして利用できるかどうかについては、今後さらに研究する必要があります。


まとめ|ケタミンとストレス反応の関係を示した探索的研究

今回紹介した研究では、自殺念慮を伴う大うつ病性障害の患者さんを対象に、ケタミン治療前後の唾液中コルチゾールが調べられました。

その結果、ケタミン0.5mg/kgを40分かけて静脈投与した患者さんでは、24時間後の起床時コルチゾールが上昇していました。

一方で、起床直後から30分後までの変化を示すコルチゾール覚醒反応そのものが増加したわけではありません。

また、起床時コルチゾールの上昇が大きいほど自殺念慮が改善する傾向はみられたものの、その関連はr=−0.25、p=0.052であり、統計学的に明確な関連とはいえませんでした。うつ症状全体の改善との関連も確認されませんでした。

この研究から分かるのは、

「ケタミン治療後には、脳だけでなく身体のストレス反応システムにも変化が生じている可能性がある」

ということです。

ただし、その変化がケタミンの治療効果を生み出しているのか、治療効果に伴って起こる変化なのか、それとも別の仕組みによって同時に起きているのかは分かっていません。

著者らは、過剰・持続的ではないコルチゾールの上昇がストレスへの抵抗力と関係する可能性に注目していますが、今回の研究だけで「ケタミンがストレス・レジリエンスを高める」と結論づけることはできません。

それでも、ケタミンの作用を単に「気分を改善する薬」として捉えるだけでなく、うつ病で変化している脳と身体のストレス応答をどのように変化させるのかという視点から研究することは、ケタミンの作用機序を理解するうえで重要です。

今後、より多くの患者さんを対象とし、睡眠や一日のコルチゾール変動なども詳しく測定する研究が行われることで、ケタミンとストレス応答システムとの関係がさらに明らかになることが期待されます。

参考文献

Choo TH, Galfalvy HC, Keilp JG, Burke AK, Mann JJ, Grunebaum MF. Increased morning cortisol after ketamine treatment for suicidal depression: Exploratory report from a randomized trial. Journal of Affective Disorders. 412:122175. 2026.