はじめに|双極性障害のうつ状態にケタミンは有効なのか
双極性障害というと、「気分が高揚する」「活動的になる」といった躁状態が注目されがちです。しかし、実際にはうつ状態に悩まされる患者さんも多く、気分の落ち込み、意欲の低下、楽しさを感じにくい、疲れやすいといった症状が長く続くことがあります。
さらに、双極性障害のうつ状態では、一般的なうつ病と同じように抗うつ薬を使用すればよいとは限りません。治療によって気分が過度に高揚する「躁転」などにも注意する必要があり、治療の選択肢には一定の制約があります。
こうしたなかで注目されている治療の一つがケタミンです。
ケタミンはもともと麻酔薬として使用されてきた薬剤ですが、近年では治療抵抗性うつ病に対する比較的速やかな抗うつ作用が研究されています。一方、双極性障害のうつ状態に対しても同様の効果が期待できるのか、安全に使用できるのかについては、まだ十分な研究が蓄積されているとはいえません。
2026年、Orsiniらは、治療抵抗性の双極性うつ病に対する反復静注ケタミンの有効性と安全性を検討したランダム化比較試験を医学雑誌『JAMA Psychiatry』に発表しました。
本記事では、2026年にOrsiniらが発表した『JAMA Psychiatry』掲載論文「Serial Ketamine Infusions for Treatment-Resistant Bipolar Depression: A Randomized Clinical Trial」をもとに、双極性障害のうつ状態に対するケタミン治療の可能性について解説します。
背景|双極性うつ病の治療が難しい理由
双極性障害は、躁状態または軽躁状態とうつ状態を繰り返す精神疾患です。
双極I型障害では明らかな躁状態がみられ、双極II型障害では躁状態ほど重くない軽躁状態とうつ状態を繰り返します。
しかし、患者さんが実際に治療を必要とする場面では、必ずしも躁症状だけが問題となるわけではありません。
「何もする気になれない」
「以前は楽しめていたことを楽しめない」
「仕事や家事ができない」
「自分には価値がないと感じる」
といったうつ症状が強く現れることもあります。
ここで重要なのが、双極性障害のうつ状態と、一般的なうつ病では治療が異なるという点です。
うつ病では抗うつ薬が広く使用されていますが、双極性障害では一般的に抗うつ薬を使いません。患者さんによっては、抗うつ薬により躁状態や軽躁状態への移行、気分の不安定化などが出現する可能性があるからです。
そのため双極性うつ病では、気分安定薬や一部の抗精神病薬などを中心として治療が組み立てられます。
それでも、複数の治療を行ってもうつ症状が十分に改善しない症例があります。
このような背景から、従来とは異なる作用機序を持つ治療として研究されているのがケタミンです。
静脈内投与によるケタミンの抗うつ作用については、これまで主として大うつ病性障害を対象に研究されてきました。
今回の研究では抗うつ効果だけではなく、躁状態や軽躁状態を引き起こさないかという安全性の問題についても検証されました。
研究方法|治療抵抗性の双極I型・II型うつ病を対象にしたRCT
今回の研究は、カナダ・オンタリオ州の3施設で2022年7月から2025年11月にかけて行われた、二重盲検ランダム化比較試験です。
ランダム化比較試験、いわゆるRCT(Randomized Controlled Trial)とは、参加者を無作為に複数のグループへ振り分け、治療効果を比較する研究方法です。
治療を受ける人の特徴による偏りをできるだけ小さくできるため、治療の有効性を検証するうえで信頼性の高い研究方法の一つとされています。
対象となったのは21〜65歳の外来患者で、DSM-5に基づいて双極I型障害または双極II型障害と診断され、現在、中等度から重度の大うつ病エピソードにある人でした。
さらに、これまでに少なくとも2種類の、エビデンスに基づく薬物療法を行っても十分な効果が得られなかったことが参加条件となっています。
つまり、比較的治療の難しい治療抵抗性双極性うつ病を対象とした研究です。
参加者は1対1の割合で、
- ケタミンを投与するグループ
- ミダゾラムを投与するグループ
に無作為に振り分けられました。
ミダゾラムは鎮静作用を持つ薬剤です。今回の研究ではケタミンと比較する対照薬として使用されています。
治療は2週間で合計4回行われ、1回につき40分かけて静脈内投与されました。
ケタミンの投与量は0.5〜0.75mg/kg、ミダゾラムは0.02〜0.03mg/kgでした。
重要なのは、ケタミンだけで双極性障害を治療した研究ではないという点です。
参加者は少なくとも1種類の気分安定薬または抗精神病薬を安定した用量で継続しており、その治療にケタミンまたはミダゾラムを追加する治療として研究が行われました。
うつ症状はMADRSで評価された
この研究の主要な評価項目には、MADRS(Montgomery-Åsberg Depression Rating Scale:モンゴメリー・アスベルグうつ病評価尺度)が使用されました。
MADRSは、医療者が患者さんの症状を確認しながら、うつ症状の重症度を数値として60点満点で評価する尺度です。
悲しさ、意欲低下、睡眠、食欲、集中力、悲観的な考えなど複数の項目を評価し、一般的には点数が高いほど、うつ症状が強いことを意味します。
研究への参加時にはMADRSが21点以上であることが条件とされました。
そして研究開始時から、4回の投与を終えた14日目までにMADRSがどの程度変化したかが、主要な治療効果の指標とされました。
また安全性については、治療後に新たに
- 躁病
- 軽躁病
- 混合性の特徴
- 精神病症状
が出現しないかについて慎重に評価されました。
結果①|ケタミン群ではうつ症状がより大きく改善した
研究には68人が無作為に割り付けられました。
参加者の平均年齢は44.4歳で、38人、55.8%が女性でした。
結果として、14日目のMADRSスコアは、ミダゾラム群と比較してケタミン群で有意に低くなりました。
両群の差は、
−7.3点
でした。
95%信頼区間は−12.0〜−2.5点、P値は0.003でした。
簡単にいえば、偶然のばらつきだけでは説明しにくい差がケタミン群とミダゾラム群の間に認められたということです。
さらに「Cohen’s d」という効果量は0.7でした。
Cohen’s dは、単に「統計的に差があったか」だけではなく、「どの程度の大きさの差があったか」を表すための指標です。
一般的な目安では0.5程度を中等度、0.8程度を大きな効果と考えるため、0.7という値は、中等度から比較的大きな群間差を示す結果と考えることができます。
結果②|躁転や精神病症状は認められなかった
今回の研究では、研究期間中に
- 躁病
- 軽躁病
- 精神病症状(幻覚や妄想のこと)
- 自殺企図
は、ケタミン群、ミダゾラム群のいずれにも認められませんでした。
一方、「混合性の特徴」はそれぞれのグループで1人ずつ認められました。
混合性の特徴とは、うつ状態でありながら、一部に軽躁的な症状が混ざってみられる状態です。この研究で確認されたものは、軽躁病の診断基準を満たさない程度の軽躁症状でした。
したがって今回の試験では、ケタミンを4回投与したことによって明らかな躁病や軽躁病が増えたという結果は示されませんでした。
考察|この研究から双極性うつ病へのケタミン治療をどう考えるか
今回の研究には、双極性うつ病に対するケタミン治療を考えるうえで、いくつか重要な意味があります。
単回投与ではなく4回の反復投与で効果が検討された
ケタミンの抗うつ作用を調べた初期の研究では、1回の投与後に症状がどの程度変化するかを検討した研究も多く存在します。
しかし実際の治療では、1回だけ投与して終了するのではなく、一定期間に複数回投与する方法が検討されることがあります。
今回の研究では、2週間に4回という反復静注療法が検討されました。
したがって、「ケタミンには一時的な抗うつ作用があるか」という問いだけではなく、複数回投与する治療方法が双極性うつ病にも有効である可能性を示した点が重要です。
双極I型とII型の両方を対象としている
双極性障害には、大きく双極I型障害と双極II型障害があります。
両者には躁症状の程度などに違いがあるため、「双極性障害」と一括りにして治療効果を考えることには注意が必要です。
今回の試験では、双極I型・II型の双方が対象となっています。
一方で、この研究結果だけから「双極I型と双極II型に全く同じように効く」と結論づけることはできません。
この論文が示しているのは、両方を含む治療抵抗性双極性うつ病の集団全体において、ケタミン群の方がミダゾラム群よりうつ症状が改善したということです。
ケタミンは既存治療への「追加治療」として使われている
臨床的に特に重要なのがこの点です。
今回の研究では、気分安定薬や抗精神病薬を中止してケタミンだけを投与したわけではありません。
参加者は少なくとも1種類の気分安定薬または抗精神病薬を安定した用量で継続した状態で、そこにケタミンが追加されています。
したがって、
「双極性障害のうつ状態をケタミンだけで治療できる」
ことを証明した研究ではありません。
むしろ、通常の双極性障害治療を行っても十分な改善が得られない患者さんに対して、追加治療の選択肢としてケタミンを検討できる可能性を示した研究と考える方が適切です。
この研究の限界|長期的な効果と安全性はまだ分からない
今回の研究は、治療抵抗性双極性うつ病に対するケタミン治療を考えるうえで重要なRCTですが、この研究だけで分からないこともあります。
参加者は68人と比較的少ない
最初に挙げられるのが研究規模です。
68人を対象としたランダム化比較試験で治療効果に有意差が認められたことには意味があります。
一方、安全性については事情が異なります。
たとえば躁転が100人に1人、あるいはそれ以下の頻度で起こると仮定すると、68人程度の研究だけでそのリスクを正確に把握することは困難です。
そのため、今回躁病や軽躁病が認められなかったことは重要な結果ではあるものの、躁転リスクが完全に否定されたわけではありません。
主要な評価期間は14日間だった
今回の主要評価項目は、治療開始から14日目までのうつ症状の変化です。
そのため、
「改善した状態が数か月後まで続くのか」
「一度改善したあとに症状が再び悪化するのか」
「効果を維持するためには追加投与が必要なのか」
といった長期的な問題については、この主要評価結果だけから判断することはできません。
双極性障害は長期的な経過をみながら治療する疾患です。
そのため今後は、短期的な抗うつ効果だけでなく、再発予防や長期的な安全性についても検討する必要があります。
ケタミン単独療法を調べた研究ではない
前述したように、参加者は気分安定薬または抗精神病薬を継続していました。
この点は安全性を考えるうえでも重要です。
今回の結果を根拠として、気分安定薬などを中止してケタミンだけを使用した場合にも同じ効果や安全性が得られる、と考えることはできません。
すべての双極性障害の患者さんに当てはめられるわけではない
今回対象となったのは21〜65歳の外来患者で、治療抵抗性の双極I型またはII型うつ病を有する人です。
また、研究はカナダ・オンタリオ州の3施設で行われています。
臨床研究では、研究参加の条件を満たした限られた患者さんを対象とします。
そのため、高齢者や若年者、身体疾患を併存している人、症状や治療歴が大きく異なる人などに、今回と全く同じ結果が得られるとは限りません。
まとめ|双極性うつ病に対するケタミンは有望だが、慎重な評価が必要
今回のランダム化比較試験では、治療抵抗性の双極I型・II型うつ病に対して、2週間で4回の静注ケタミンを既存治療に追加することで、ミダゾラムと比較してうつ症状が有意に改善しました。
MADRSの群間差は−7.3点、効果量を示すCohen’s dは0.7でした。
また、研究期間中には躁病、軽躁病、精神病、自殺企図は認められませんでした。
これは、双極性うつ病に対する静注ケタミンの可能性を示す重要な結果です。
一方で、この研究には68人しか参加しておらず、主要な評価期間も14日間です。
そのため、
「双極性障害にもケタミンは確実に安全である」
「長期間にわたって効果が続く」
とまで結論づけることはできません。
特に双極性障害では、うつ症状を改善することだけでなく、躁状態や軽躁状態を引き起こさず、長期的に気分を安定させることが治療上重要です。
今回の研究は、双極性うつ病に対するケタミン治療を支持する有望なRCTの一つと考えられますが、今後さらに大規模で長期的な研究が積み重ねられる必要があります。
参考文献
Orsini DK, Di Luch S, Tomlinson G, et al. Serial Ketamine Infusions for Treatment-Resistant Bipolar Depression: A Randomized Clinical Trial. JAMA Psychiatry. Online ahead of print. 2026. doi:10.1001/jamapsychiatry.2026.2658.