はじめに
うつ病では、「なかなか眠れない」「寝ても休んだ気がしない」「朝早く目が覚める」といった睡眠の問題がしばしばみられます。
睡眠の問題は、単にうつ病に伴って生じる症状というだけではありません。脳が日中の活動による負荷を調整し、神経回路を整える働きそのものが乱れている可能性もあります。
近年、治療抵抗性うつ病に対して、比較的速やかな効果を示す治療としてケタミン療法が研究されています。ケタミンの作用は、投与直後の覚醒している時間だけで完結するのではなく、その後の睡眠を通じて脳の回復や再編成を促しているのではないか、という考え方があります。
本記事では、2026年にHejaziらが『Neuropsychopharmacology』に発表した論文「Modulation of early non-rapid eye movement slow wave activity by ketamine in treatment-resistant depression」をもとに、ケタミン点滴後の睡眠中にみられる脳波の変化と、睡眠・うつ症状の改善との関係について解説します。
この研究は、治療抵抗性うつ病の患者さん91人と、精神疾患のない健康な参加者42人を対象に、睡眠中の「徐波活動」と呼ばれる脳波を測定したものです。
治療抵抗性うつ病とは
治療抵抗性うつ病とは、一般に、十分な量と期間で複数の抗うつ薬を使用しても、十分な改善が得られないうつ病を指します。
今回の研究では、少なくとも2種類の適切な抗うつ治療に反応しなかった人が対象となりました。治療抵抗性うつ病の患者さん91人のうち、64人はうつ病、27人は双極性障害のうつ状態でした。年齢は20~70歳で、平均年齢は約43歳でした。双極性障害のうつ状態は、厳密には治療抵抗性うつ病には含まれませんが、本記事では便宜的に治療抵抗性うつ病にまとめて解説します。
睡眠に影響する薬の作用をできるだけ取り除くため、参加者は原則として研究前に少なくとも2週間、抗うつ薬を含む向精神薬を中止した状態で入院管理されていました。
したがって、日常診療でさまざまな薬を服用している患者さんに、そのまま研究結果を当てはめられるわけではありません。一方で、ケタミンそのものが睡眠脳波に及ぼす影響を検討するうえでは、慎重に条件を整えた研究といえます。
睡眠中の「徐波活動」とは何か
睡眠は、大きく「レム睡眠」と「ノンレム睡眠」に分けられます。
レム睡眠は夢を見る浅い眠り、ノンレム睡眠中は深い眠りです。
ノンレム睡眠では、特に眠り始めの前半に、脳波上で大きくゆっくりとした波が目立ます。このような脳波を「徐波活動」と呼びます。英語ではslow-wave activityと表記され、SWAと略されます。
今回の研究では、0.5~4ヘルツという低い周波数帯の脳波が測定されました。
徐波活動は、単に「深く眠っていること」だけを表す指標ではありません。
日中に活動した脳では、学習や経験によって、神経細胞同士のつながりであるシナプスがさまざまに強化されます。睡眠中には、それらのつながりを整理し、脳が翌日に備えるための調整が行われると考えられています。
徐波活動は、このような睡眠中の脳の調整機能や、多くの神経細胞がまとまって活動する力を反映する指標の一つです。
通常、徐波活動は眠り始めに最も強く、朝に近づくにつれて弱くなります。今回の研究が特に注目したのは、最初のノンレム睡眠期間にみられる徐波活動でした。
この時間帯の徐波活動には、一日の覚醒によって蓄積された「睡眠圧」が強く現れると考えられています。睡眠圧とは、起きている時間が長くなるほど、眠る必要性が高まる仕組みのことです。
研究はどのように行われたのか
研究では、治療抵抗性うつ病の患者さん91人と、精神疾患のない健康な参加者42人に、睡眠ポリグラフ検査が行われました。
睡眠ポリグラフ検査とは、睡眠中の脳波、眼球運動、筋肉の活動などを記録し、睡眠の段階や質を客観的に評価する検査です。
参加者は睡眠検査室で何泊かし、まず治療前の睡眠を測定しました。その後、午前10時30分ごろから、体重1kg当たり0.5mgのケタミンを40分かけて静脈内投与しました。
そして、ケタミンを投与した日の午後11時ごろから翌朝7時まで、睡眠中の脳波などが、ケタミン治療後のデータとして記録されました。
研究は、二重盲検のクロスオーバー方式で行われました。
二重盲検とは、参加者だけでなく、症状を評価する研究者も、ケタミンと偽薬のどちらが投与されたのかを原則として知らない研究方法です。治療への期待などが結果に影響することを防ぐ目的があります。
クロスオーバー方式とは、同じ参加者が、ケタミンと偽薬の両方の条件を経験する方法です。条件を満たした参加者は、約2週間後にケタミンと偽薬を入れ替えて検査を受けました。
同じ人のケタミン投与後と偽薬投与後を比較できるため、もともとの睡眠の個人差による影響を小さくできるという利点があります。
うつの患者は睡眠時間が短く、寝つきが悪く、徐波活動も弱かった
治療前の時点で、治療抵抗性うつ病の患者さんと健康な参加者との間には、睡眠に明らかな違いがみられました。
最初のノンレム睡眠期間における徐波活動は、患者さんでは平均1.11、健康な参加者では平均1.40でした。患者さんの徐波活動は、健康な参加者より約21%低い値でした。
総睡眠時間は、患者さんでは平均379.98分、約6時間20分でした。一方、健康な参加者では平均411.25分、約6時間51分でした。
つまり、患者さんの総睡眠時間は、健康な参加者より平均約31分短かったことになります。
また、ベッドにいた時間のうち、実際に眠っていた時間の割合を「睡眠効率」と呼びます。睡眠効率は、患者さんでは84.37%、健康な参加者では90.17%でした。
消灯してから実際に眠りにつくまでの時間である「睡眠潜時」は、患者さんでは平均30.19分、健康な参加者では平均13.94分でした。
患者さんでは、眠りにつくまでに健康な参加者より平均約16分長くかかっていました。
このように、治療抵抗性うつ病の患者さんでは、治療前から睡眠時間が短く、寝つくまでに時間がかかり、眠り始めの徐波活動も弱いという特徴が確認されました。
ケタミン投与後には徐波活動が増え、寝付きが改善し、睡眠時間も延長した
治療抵抗性うつ病の患者さん全体では、ケタミン投与後に、最初のノンレム睡眠期間における徐波活動が治療前より有意に増加しました。
また、ケタミン投与後には、徐波活動だけでなく、睡眠時間や寝つきにも変化がみられました。
総睡眠時間は、治療前の平均379.98分から、ケタミン投与後には平均401.67分へ増加しました。差は21.69分であり、ケタミン投与後には平均約22分長く眠れたことになります。
ベッドにいた時間のうち、実際に眠っていた時間の割合である睡眠効率は、治療前の84.37%から87.57%へ上昇しました。上昇幅は3.20ポイントでした。
また、消灯してから眠りにつくまでの時間である睡眠潜時は、治療前の平均30.19分から、ケタミン投与後には平均19.93分へ短縮しました。つまり、眠りにつくまでの時間が平均10.26分短くなったことになります。
一方、夜中に目を覚ましていた時間や、深い睡眠そのものの時間など、その他の睡眠指標には明確な変化が認められませんでした。また、健康な参加者では、ケタミン投与後に徐波活動やその他の睡眠指標の有意な変化は確認されませんでした。
これらの結果から、ケタミンは誰に対しても一様に睡眠を深くするというより、うつ病によって乱れていた睡眠の調節に部分的な変化をもたらした可能性があると言えます。
ただし、この結果を解釈する際には重要な注意点があります。
ケタミン投与後と治療前を比較すると、徐波活動の有意な増加が認められました。しかし、ケタミン投与後と偽薬投与後を直接比較すると、その差は統計学的に優位なものではありませんでした。
したがって、この研究だけから「ケタミンは偽薬よりも確実に徐波活動を増加させる」と断定することはできません。
また、今回測定されたのは、ケタミンを1回投与した後の一晩のみです。徐波活動や睡眠時間、寝つきの変化がその後も続くのか、複数回の治療によってどのように変化するのかは明らかになっていません。
今回の結果は、ケタミンが治療後の睡眠中の脳活動や睡眠状態に影響を及ぼす可能性を示すものですが、その作用については、今後さらに大規模な研究で確認する必要があります。
単回のケタミン治療でもうつ症状は改善していた
この研究の主題は睡眠データについてですが、うつ症状についても評価されました。うつ症状の評価にMADRSという尺度が使用されました。
MADRSは、Montgomery-Åsberg Depression Rating Scaleの略称です。悲しさ、意欲の低下、睡眠の問題、集中力の低下、悲観的な考え、希死念慮などを医療者が評価し、合計60点でうつ症状の重さを判断します。
点数が高いほど、うつ症状が重いことを示します。
研究では、ケタミン投与から24時間後に、MADRSの点数が治療前から50%以上低下した人を「反応者」と定義しました。
ケタミンを投与された患者さんのうち、反応者は37人、50%以上の改善に達しなかった非反応者は53人でした。
反応者のMADRSは、治療前の平均32.51点から、ケタミン投与24時間後には平均9.54点まで低下しました。
低下幅は22.97点で、割合にするとなんと約71%の改善です。
一方、非反応者でも、MADRSは治療前の平均33.79点から、24時間後には平均28.55点へ低下しました。
低下幅は5.24点で、割合にすると約16%の改善でした。ただし、反応者の基準である50%以上の改善には達しませんでした。
この反応者と非反応者とを分けて睡眠データを解析すると、反応者の方が、徐波活動の増加が明確でした。これは、徐波活動の増加と抑うつ症状の改善が相関していることを示します。ただし、因果関係を証明できるものではありません。
ケタミン、睡眠、脳の神経可塑性の関係
ケタミンの抗うつ作用には、グルタミン酸という神経伝達物質の働きの変化や、AMPA受容体、BDNF、mTORなどを介した神経回路の再構築が関係すると考えられています。
神経可塑性とは、学習、経験、環境、治療などに応じて、脳の神経回路が変化する性質のことです。
うつ病では、ストレスなどによってこの神経可塑性が低下し、感情や意欲に関係する神経回路が柔軟に変化しにくくなっている可能性があります。
ケタミンは神経可塑性を高める効果があり、神経細胞同士の新しいつながりを形成しやすくし、脳が変化する力を一時的に高める可能性があります。
さらに、日中にケタミンによって神経回路の変化が促され、その夜の睡眠中に徐波活動が高まることで、新たに変化した神経回路が整理されるという仕組みも考えられています。
たとえるなら、ケタミンによって日中に行われた「脳の改修工事」を、睡眠中に点検し、必要なつながりを安定させ、不要なつながりを整理するようなイメージです。
ただし、これはこれまでの研究結果を説明するための仮説です。
この研究では、新しいシナプスが実際に形成されたかどうかを直接測定したわけではありません。睡眠中の徐波活動は、ケタミンによって生じた神経可塑性を間接的に捉える候補指標の一つと考えるのが適切です。
この研究から分かること
今回の研究から、治療抵抗性うつ病の患者さんでは、健康な人と比べて、眠り始めの徐波活動が低下していることが示されました。
また、単回のケタミン点滴後には、治療前と比較して徐波活動が増加し、睡眠時間や寝つきにも一定の改善が認められました。
特に、ケタミン投与24時間後にうつ症状が50%以上改善した反応者では、徐波活動の増加が明確でした。
このことから、ケタミンによる抗うつ効果と、治療後の睡眠中に起こる脳活動の変化が関連している可能性があります。
ケタミン療法を考えるうえで、投与中の体験や投与直後の気分変化だけでなく、その後の睡眠も重要な過程である可能性を示した点は、この研究の大きな意義といえます。
この研究だけでは分からないこと
一方で、今回の研究には限界もあります。
対象者には、大うつ病性障害と双極性障害のうつ状態の両方が含まれていました。両者で睡眠脳波の変化やケタミンへの反応が異なる可能性がありますが、今回の研究では、その違いが十分に検討されていません。
また、ケタミンに反応した患者さんは37人であり、反応者と非反応者の違いを詳しく調べるには、さらに多くの対象者が必要です。
今回調べられたのは、体重1kg当たり0.5mgのケタミンを1回点滴した後の睡眠です。
複数回のケタミン治療を続けた場合に徐波活動がどのように変化するのか、睡眠の改善がどの程度持続するのか、徐波活動の変化から治療効果を事前に予測できるのかは分かっていません。
また、ケタミン投与後と治療前との比較では徐波活動の有意な増加がみられたものの、ケタミン投与後と偽薬投与後の直接比較では、補正後の有意差には達しませんでした。
現時点では、睡眠脳波を測定してケタミン療法の効果を判定したり、治療を受けるべき人を選んだりすることはできません。
まとめ
今回の研究では、治療抵抗性うつ病の患者さんは健康な人に比べて、眠り始めの徐波活動が約21%低く、総睡眠時間が約31分短く、眠りにつくまでに約16分長くかかっていました。
単回のケタミン点滴後には、患者さん全体で徐波活動が治療前より増加しました。
また、総睡眠時間は平均約22分延び、睡眠効率は3.20ポイント上昇し、眠りにつくまでの時間は平均約10分短縮しました。
特に、ケタミン投与24時間後にMADRSの点数が50%以上改善した人では、睡眠中の徐波活動の増加が明確でした。
これらの結果は、ケタミンの作用が、日中に感じられる気分の変化だけでなく、その後の睡眠中に行われる神経回路の調整とも関係している可能性を示しています。
一方で、睡眠脳波の変化が抗うつ効果の原因であることは証明されていません。偽薬との直接比較や、複数回の治療後にどのような変化が生じるのかについても、今後の研究が必要です。
今回の研究は、ケタミンが治療抵抗性うつ病で乱れている睡眠の調節や、脳の神経可塑性に働きかける可能性を示した点で重要です。
将来、睡眠中の脳波がケタミン療法への反応を理解する手がかりとなれば、一人ひとりの患者さんに適した治療を、より客観的に検討できるようになることが期待されます。
参考文献
Hejazi N, Kheirkhah M, Riedner B, Yuan Q, Chholak R, Momenan R, Jones G, Goldman D, Zarate CA Jr. Modulation of early non-rapid eye movement slow wave activity by ketamine in treatment-resistant depression. Neuropsychopharmacology. Online ahead of print. 2026.