はじめに

前の記事では、自我心理学と防衛機制について解説しました。自我心理学は、人が不安や葛藤に圧倒されないように、どのような方法で自分の心を守っているのかを考える理論です。

今回取り上げる対象関係論は、そこからさらに視点を広げます。

私たちは、人との関係をその場限りの出来事として経験しているわけではありません。誰かに受け止めてもらった経験、拒絶された経験、期待に応えようとしてきた経験などは、「自分はどのような人間なのか」「他者は信頼できるのか」という感覚の形成に影響します。

たとえば、ある人から連絡が返ってこないとき、「忙しいのだろう」と考えられる人もいれば、「嫌われたに違いない」「自分は見捨てられた」と強く感じる人もいます。同じ出来事であっても、その人の中にある自己像や他者像によって、受け止め方は異なります。

対象関係論は、このような心の中の自己像と他者像が、重要な人との関係を通じてどのように形成され、現在の人間関係にどのような影響を与えるのかを考える理論です。

対象関係論とは何か

「対象関係論」という言葉を初めて聞くと、物との関係を扱う理論のように思えるかもしれません。

しかし、精神分析における対象とは、感情や欲求が向けられる相手を意味します。多くの場合、自分にとって重要な他者を指します。

乳幼児にとっては、親や養育者が代表的な対象です。成人後には、配偶者、恋人、友人、上司、部下、治療者なども重要な対象になります。

対象関係論は、ジークムント・フロイトの精神分析から発展しましたが、一人の研究者による統一された理論ではありません。

メラニー・クラインは、子どもの遊びを通して乳幼児の心を理解しようとし、妄想・分裂ポジションや抑うつポジションという概念を提唱しました。ロナルド・フェアバーンは、人間を単に欲求の満足を求める存在としてではなく、他者との関係を求める存在として捉えました。

ドナルド・ウィニコットは、子どもの心の発達を支える養育環境や、「ほどよい母親」「抱える環境」「移行対象」などの概念を提示しました。オットー・カーンバーグは、対象関係論を人格の構造や境界性パーソナリティ障害の理解へ発展させました。

このように対象関係論には複数の流れがありますが、共通しているのは、人との関係が心の中に取り込まれ、その後の自己理解や対人関係に影響するという考え方です。国際精神分析学会も、対象関係論の発展としてクライン、フェアバーン、ウィニコットらの異なる理論的系譜を紹介しています。

心の中に取り込まれる自己像と他者像

対象関係論では、重要な人との関係が、単なる過去の記憶として保存されるだけではないと考えます。

その関係の中で経験した自分の姿、相手の姿、そして両者を結ぶ感情が、一つのまとまりとして心の中に取り込まれます。

たとえば、子どもが不安を感じたとき、養育者が落ち着いて受け止めてくれたとします。その経験から、子どもの心には「不安を感じても受け止めてもらえる自分」と「困ったときに助けてくれる他者」という関係のイメージが形成されるかもしれません。

反対に、助けを求めたときに強く叱られた経験では、「弱さを見せると拒絶される自分」と「自分を責める他者」というイメージが生じる可能性があります。

対象関係論では、このような心の中の他者像を内的対象、自分についてのイメージを自己表象、他者についてのイメージを対象表象などと呼びます。

ただし、実際の親や養育者が、そのまま心の中へ複製されるわけではありません。同じ出来事であっても、子どもの気質、発達段階、そのときの感情、周囲の状況などによって、体験のされ方は異なります。

また、心の中には一つの自己像と一つの他者像だけが存在するわけでもありません。

同じ人の中に、「愛されている自分と、受け止めてくれる他者」という関係もあれば、「見捨てられる自分と、拒絶する他者」という関係もあります。仕事では「評価される自分」を感じていても、親密な関係では「いつか嫌われる自分」が強く現れることもあります。

そのときの出来事や感情によって、心の中のどの自己像と他者像が前面に出るかが変わるのです。

内的対象という概念は、実在する他者の客観的な姿ではなく、その人が感情や空想を通して経験し、心の中に取り込んだ関係を表しています。クラインの理論では、こうした内的対象の形成が、部分的に捉えられた対象から、良い面と悪い面を併せ持つ全体的な対象の理解へ進む過程と結びつけられています。

対象関係論は心の発達をどう捉えるのか

対象関係論は、現在の症状だけでなく、人が自分や他者を理解する力がどのように発達するのかを考える発達論でもあります。

ただし、「何歳になれば必ずこの段階へ進む」という単純な発達段階を示す理論ではありません。

乳幼児は、最初から養育者を、長所と短所の両方を持つ一人の人間として安定して理解できるわけではありません。

空腹を満たし、安心させてくれる体験は心地よいものです。一方、すぐに欲求が満たされない体験は、乳幼児にとって強い苦痛となります。

メラニー・クラインは、発達初期の乳幼児が、心地よい体験と苦痛な体験を十分にまとめられず、「良い対象」と「悪い対象」に分けて経験すると考えました。

クラインは、子どもの遊びには空想、不安、愛情、攻撃性などの心の動きが表れると考え、遊戯を用いた精神分析を通して理論を発展させました。その中で提示された代表的な概念が、妄想・分裂ポジションと抑うつポジションです。

妄想・分裂ポジションとは

妄想・分裂ポジションとは、良い体験と悪い体験、良い自分と悪い自分、良い他者と悪い他者が、まだ十分に一つへ統合されていない心の状態です。

英語では paranoid-schizoid position と呼ばれます。

ここでいう「妄想」は、統合失調症などにみられる妄想という症状が必ず生じることを意味しません。また、「分裂」も統合失調症という診断を意味するものではありません。

「妄想的」という言葉は、相手から攻撃される、脅かされる、悪意を向けられるといった迫害されるような不安を表しています。「分裂」とは、良いものと悪いものを分けておく心の働きを意味します。

たとえば、乳幼児が空腹で泣いたとき、すぐに授乳してくれる養育者は、安心を与えてくれる「良い対象」として体験されます。一方、すぐに来てくれない養育者は、苦痛をもたらす「悪い対象」として経験されるかもしれません。

もちろん、実際には同じ一人の養育者です。しかし発達の初期には、満足を与える相手と苦痛をもたらす相手を、同じ存在として安定して捉えることが難しいとクラインは考えました。

良い対象と悪い対象を分けることで、良い対象を悪い感情から守ることができます。世界が「完全に良いもの」と「完全に悪いもの」に分かれていれば、複雑さを抱えずに済むためです。

成人でも、強い不安にさらされると同じような心の状態が現れることがあります。

たとえば、恋人を「自分を完全に理解してくれる理想的な人」と感じていた人が、連絡の遅れをきっかけに、「最初から自分を利用していただけだ」と感じることがあります。

昨日までの良い体験が、事実として消えたわけではありません。しかし、見捨てられる不安が非常に強くなると、良い相手のイメージに近づけなくなり、悪い相手のイメージだけが心を占めることがあります。

妄想・分裂ポジションでは、分裂のほかにも、理想化、価値下げ、投影、投影同一化などの防衛機制が用いられやすいと考えられています。

理想化とは、相手を欠点のない特別な存在として捉えることです。価値下げとは、失望した相手を、まったく価値のない存在として捉えることです。

投影とは、自分の中にある受け入れにくい感情を、相手が持っているものとして感じることです。たとえば、自分が相手に強い怒りを感じていることに気づかず、「相手が自分を攻撃しようとしている」と感じることがあります。

投影同一化は、心の一部を相手へ投影するだけでなく、人間関係の中で相手にも実際に特定の感情を抱かせるような相互作用が生じることを表します。クラインは、投影同一化を、自分や内的対象の一部を切り離して、外部の対象へ帰属させる無意識的な空想として提唱しました。

ただし、人が誰かに不信感を抱いたからといって、すぐに投影や妄想・分裂ポジションだと判断することはできません。実際に相手が不誠実であったり、攻撃的であったりする場合もあります。

対象関係論による理解では、本人の内側の世界だけでなく、現在の現実も同時に確認することが必要です。

抑うつポジションとは

発達に伴い、乳幼児は、満足を与えてくれる「良い対象」と、不満をもたらす「悪い対象」が、実際には同じ一人の相手であることを少しずつ理解するようになると、クラインは考えました。

この心の状態を抑うつポジションと呼びます。

ここでいう「抑うつ」は、うつ病という診断を意味しません。相手を良い面と悪い面の両方を持つ一人の人間として認識したときに生じる、悲しみ、心配、罪悪感などを表しています。

相手を完全に良い存在と完全に悪い存在に分けている間は、怒りを悪い対象だけに向けることができます。

しかし、良い対象と悪い対象が同じ一人の相手だと分かると、「自分が怒りを向けた相手は、自分が愛し、必要としている相手でもある」と気づくことになります。

その結果、「大切な相手を傷つけてしまったかもしれない」「自分の怒りによって相手を失うかもしれない」という不安や悲しみが生じます。

この心の痛みに耐えることは簡単ではありません。しかし、相手を一人のまとまった人間として捉えるためには、愛情と怒り、感謝と不満など、相反する感情を同時に抱えられることが必要です。

たとえば、親しい友人の発言に傷ついたとします。

妄想・分裂的な状態では、「この人は自分を傷つける悪い人だ。これまでの友情もすべて嘘だった」と感じるかもしれません。

抑うつポジションでは、「今回の発言には傷ついたし、怒りも感じる。しかし、この人に助けてもらった経験や、一緒に過ごした大切な時間も事実である」と考えられます。

相手を許さなければならないという意味ではありません。必要であれば距離を取ったり、関係を終えたりすることもあります。それでも、相手のすべてを完全な悪として捉えず、関係全体をより複雑に理解できます。

抑うつポジションでは、自分にも良い面と悪い面があり、相手にも良い面と悪い面があることを認めるようになります。

そして、大切な相手を傷つけたと感じたときには、謝罪したり、関係を修復したり、失ったものを心の中で回復しようとします。クラインは、この働きを償いと呼びました。

抑うつポジションは、喪失を悲しむ力、相手を心配する力、自分の行動を振り返る力、関係を修復しようとする力と結びついています。クラインの理論では、成熟は、喪失や悲しみを経験しながら、分裂された対象を全体的な対象として認識していく過程と深く関係します。

二つのポジションの間を人は行き来する

妄想・分裂ポジションと抑うつポジションは、乳幼児期に一度だけ通過する、固定された二段階ではありません。

人は生涯を通じて、二つのポジションの間を行き来します。

普段は、相手には良い面と悪い面の両方があると理解できていても、疲労、孤立、批判、喪失、見捨てられる不安などによって心の余裕を失うと、相手を完全な味方か完全な敵かに分けて捉えることがあります。

職場で一度厳しい指摘を受けただけで、「この上司は自分を辞めさせようとしている」と感じたり、恋人からの返信が遅れただけで、「もう愛されていない」と確信したりすることがあります。

その瞬間には、相手との良い経験を思い出すことが難しくなります。

しかし感情が落ち着いた後に、「指摘されたことには腹が立ったが、これまで助けてもらったこともある」「返信が遅れたのには、別の事情があったかもしれない」と考え直せる場合があります。

これは、妄想・分裂的な状態から、抑うつポジションへ戻れたと理解できます。

心の成熟とは、怒りや分裂が完全になくなることではありません。強い感情によって物事が極端に見えた後でも、自分や相手の複数の側面を取り戻し、より複雑な現実を考え直せることです。

抑うつポジションにいることが常に正しく、妄想・分裂ポジションが常に悪いわけでもありません。

実際に危険な相手から自分を守らなければならない状況では、物事を明確に分け、すぐに距離を取ることが必要な場合もあります。問題となるのは、どのような状況でも同じ見方に固定され、他の可能性を考えられなくなることです。

対象関係論は境界性パーソナリティ障害の理解を助ける

対象関係論は、境界性パーソナリティ障害にみられる自己像や対人関係の不安定さを理解するうえで、大きな影響を与えました。

境界性パーソナリティ障害では、感情が大きく揺れやすいこと、自分がどのような人間かという感覚が不安定になりやすいこと、見捨てられることへの強い不安、衝動的な行動、不安定な人間関係などがみられます。

ただし、境界性パーソナリティ障害の症状や程度には大きな個人差があります。診断名だけで、その人の性格や行動を決めつけることはできません。

オットー・カーンバーグは、クラインをはじめとする対象関係論を発展させ、心の中にある良い自己像・他者像と、悪い自己像・他者像が十分に統合されていないことを、重いパーソナリティ障害の中心的な病理として捉えました。

たとえば、ある人が恋人と安心して過ごしているときには、「自分は愛される価値のある人間であり、相手は自分を大切にしてくれる」と感じているかもしれません。

ところが、相手が約束を忘れたことをきっかけに、「自分には何の価値もなく、相手は残酷で信用できない」と感じることがあります。

前者と後者の自己像・他者像の間につながりが保たれていれば、「今は腹が立っているが、相手との関係がすべて悪かったわけではない」と考えられます。

しかし、両者が強く分かれていると、その時点で活性化している関係だけが、唯一の現実のように感じられます。そのため、相手への評価だけでなく、自分自身についての評価も急激に変化します。

昨日までは自信を持っていた人が、拒絶されたと感じた途端、「自分には何の価値もない」「自分が誰なのか分からない」と感じることがあります。

カーンバーグは、このように自己についての一貫した感覚が保ちにくい状態を、同一性拡散という概念で説明しました。また、分裂を中心とする防衛機制、同一性の不安定さ、現実を検討する力などから、人格の構造を理解しようとしました。カーンバーグの「境界性人格構造」は、内在化された対象関係の統合の程度から人格機能を理解する理論的枠組みです。

ただし、カーンバーグのいう境界性人格構造と、診断基準における境界性パーソナリティ障害は、完全に同じ概念ではありません。

境界性人格構造は、より広い範囲のパーソナリティの機能水準を表す理論です。対象関係論だけで診断を行うこともできません。

また、境界性パーソナリティ障害を、親の養育や幼少期の人間関係だけで説明することは適切ではありません。現在では、遺伝的要因、気質、脳機能、発達中の環境、対人関係、トラウマや慢性的ストレスなど、複数の要因が相互に関係して発症リスクを形成すると考えられています。

対象関係論は、その中でも、患者さんが自分と他者をどのように経験し、人間関係の中でどのような自己像・他者像が現れるのかを理解するための一つの理論です。

対象関係論は治療にどのように生かされるのか

対象関係論に基づく治療では、患者さんが過去について何を話すかだけでなく、現在の人間関係や、治療者との関係の中で何が起きているかを重視します。

患者さんの心の中にある自己像と他者像は、治療者との関係にも現れる可能性があるからです。

たとえば、治療開始直後には、治療者を「自分を完全に理解してくれる唯一の人」と感じていた患者さんがいたとします。

しかし、治療者がすぐに回答を与えなかったり、休暇を取ったりしたことをきっかけに、「この治療者は自分を見捨てた」「最初から自分に関心がなかった」と感じるようになることがあります。

治療者が「理想化されていたのに、急に批判された」とだけ捉えると、患者さんの行動を問題視するだけになってしまいます。

対象関係論では、治療関係の中で、「理解される価値のある自分と、完全に受け止めてくれる他者」という関係から、「見捨てられた自分と、冷酷な他者」という関係へ切り替わった可能性を考えます。

治療者は、どちらが本当でどちらが間違いかを決めるのではありません。

「私がすぐに答えなかったことで、関心を失われたように感じたのでしょうか」「今は、これまでここで話せた経験もすべて意味がなかったように感じるのでしょうか」といった形で、現在の関係の中で何が起きているかを患者さんと一緒に考えます。

治療の目的は、患者さんから怒りや不満をなくすことではありません。治療者に怒りを感じても、これまでの治療関係のすべてが消えるわけではないと理解できることが重要です。

そのため、治療では、自分の中にある愛情と怒り、信頼と不信、依存したい気持ちと離れたい気持ちを、どちらか一方だけにせず、同時に言葉にしていきます。

オットー・カーンバーグらの対象関係論を理論的な基盤として発展した治療法に、転移焦点化精神療法があります。

転移焦点化精神療法では、治療者との関係の中で活性化している自己像と他者像を明確にし、それまで分かれていた良いイメージと悪いイメージを、より一貫した自己理解・他者理解へ統合することを目指します。境界性パーソナリティ障害を対象とした比較試験では、転移焦点化精神療法による症状や人格機能などの改善が報告されていますが、他にも弁証法的行動療法、メンタライゼーションに基づく治療、スキーマ療法など、複数の専門的治療があります。患者さんの状態や希望に合わせて選択する必要があります。

対象関係論は、患者さんを「分裂している人」「未熟な人」と分類するための理論ではありません。

強い感情の中で、その人の心にどのような自己像と他者像が現れているのか、それがどのような不安から本人を守っているのかを理解するための枠組みです。

おわりに

対象関係論は、重要な他者との関係を通じて、心の中の自己像と他者像がどのように形成され、統合されていくのかを考える発達理論です。

対象関係論における「対象」とは、単なる物ではなく、自分の感情や願いが向けられる重要な他者を意味します。

人との経験は、心の中に「愛されている自分と、受け止めてくれる他者」「見捨てられる自分と、拒絶する他者」といった関係のまとまりとして残り、現在の対人関係にも影響する可能性があります。

メラニー・クラインは、心のあり方を妄想・分裂ポジションと抑うつポジションから説明しました。

妄想・分裂ポジションでは、良いものと悪いものが分けて体験されます。抑うつポジションでは、その両方が同じ一人の人間の中に存在することを理解し、愛情と怒りなどの相反する感情を抱えられるようになります。

人は二つのポジションを生涯にわたって行き来します。大切なのは、強い感情によって相手や自分が極端に見えたとしても、やがて複数の側面を取り戻し、より複雑な現実を考え直せることです。

この考え方は、境界性パーソナリティ障害にみられる不安定な自己像、見捨てられる不安、理想化と価値下げの変化などを理解する理論へ発展しました。

ただし、対象関係論は、人の心を理解するための一つの理論的な枠組みです。心の中の対象やポジションは、血液検査や画像検査のように直接確認できるものではありません。また、成人後の苦しさを幼少期の経験や親子関係だけで説明することもできません。

理論を患者さんへ当てはめて決めつけるのではなく、その人の現在の環境、気質、身体や脳の働き、その後の人間関係なども含めて、個別に理解することが重要です。

次の記事では、自分が一人のまとまった存在であるという感覚、自尊心、共感される体験などを重視する、自己心理学について解説します。

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