はじめに
ケタミンは、従来の抗うつ薬とは異なる仕組みで比較的速やかな抗うつ作用を示すことから、治療抵抗性うつ病などに対する治療法として研究が進められています。
ケタミンの作用を説明するとき、中心となるのは「グルタミン酸」という神経伝達物質です。ケタミンはNMDA受容体を遮断する作用を持ち、そこからグルタミン酸系の働きや神経細胞同士のつながりに変化をもたらすことが、抗うつ作用に関係すると考えられています。
一方、うつ病の治療について広く知られている神経伝達物質の一つが「セロトニン」です。従来型の抗うつ薬の多くはセロトニン系に作用します。そのため、「グルタミン酸系に作用するケタミンと、セロトニンは関係がないのではないか」と思われるかもしれません。
しかし近年、ケタミンによって生じる脳内の変化はグルタミン酸系だけにとどまらず、セロトニン系にも及ぶ可能性が研究されています。
2026年、Mathesonらは医学誌『Molecular Psychiatry』に、ケタミン治療と電気けいれん療法(ECT)の前後で、脳内のセロトニン1B受容体(5-HT1B受容体)がどのように変化するのかをPETで調べた研究を発表しました。
この研究では、ケタミンとECTという一見かなり異なる治療法のあとに、セロトニン1B受容体の「結合」が共通して増加していることが示されました。
本記事では、2026年にMathesonらが発表した『Molecular Psychiatry』掲載論文「Convergent increases in serotonin 1B receptor binding following ketamine and electroconvulsive therapy: a multi-centre bayesian re-analysis of PET data」をもとに、ケタミン治療後にセロトニン系でどのような変化が起こる可能性があるのかについて解説します。
背景|ケタミンとうつ病治療で「セロトニン」はどのように関係するのか
ケタミンは主にグルタミン酸系に作用する薬として知られている
うつ病の薬物療法では、長い間セロトニンやノルアドレナリンといった神経伝達物質が重視されてきました。
たとえば、現在広く使用されているSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)は、神経細胞同士が情報をやり取りする場所でセロトニンの働きを変化させる薬です。
これに対して、ケタミンの薬理作用の出発点は大きく異なります。
ケタミンはNMDA受容体と呼ばれる受容体を遮断します。NMDA受容体は、主としてグルタミン酸という神経伝達物質の働きに関係しています。
その後、AMPA受容体を介したシグナルや、神経細胞のつながりを変化させる仕組みなど、複数の反応が連鎖していくことが、ケタミンの抗うつ作用に関係すると考えられています。
つまり、ケタミンは一般的には「セロトニンに直接作用する抗うつ薬」というより、グルタミン酸系を起点として脳の状態を変化させる治療薬として理解されています。
それでもケタミンとセロトニンには関係がある可能性がある
ただし、脳の中ではグルタミン酸系とセロトニン系が完全に独立して働いているわけではありません。
神経伝達物質のシステムは互いに影響し合っており、一つの神経伝達系に大きな変化が起これば、それに続いて別の神経伝達系にも変化が生じる可能性があります。
今回の論文でも、ケタミンやECTはセロトニンを直接の主標的とする治療ではないものの、これまでの研究から、これらの治療によってセロトニン系にも変化が生じる可能性が指摘されています。
そこで研究者らが注目したのが、セロトニン1B受容体(5-HT1B受容体)です。
セロトニン1B受容体とは何か
神経伝達物質は、それだけで神経細胞を動かすわけではありません。
神経細胞の表面などには「受容体」と呼ばれる構造があり、そこに神経伝達物質が結合することで、細胞に情報が伝わります。
よく「鍵と鍵穴」にたとえられます。セロトニンが鍵だとすれば、セロトニン受容体が鍵穴に相当します。
ただし、セロトニンの受容体は一種類ではありません。
5-HT1A、5-HT1B、5-HT2Aなど多数の種類が存在し、それぞれ脳内で異なる役割を持っています。
今回研究された5-HT1B受容体は、特に神経終末、つまり神経細胞が次の神経細胞へ情報を伝える場所などに存在しています。セロトニンを放出する神経自身にも存在し、セロトニンの放出量を調整する「ブレーキ」のような役割を果たす場合があります。
うつ病の患者さんを対象としたこれまでの小規模なPET研究では、この5-HT1B受容体の結合が低下している可能性も報告されてきました。
ケタミンとECTに共通する変化を調べた
今回の研究でもう一つ重要なのが、ケタミンだけでなく電気けいれん療法(ECT)も調べられていることです。
ECTは、全身麻酔下で脳に短時間の電気刺激を与え、治療目的の発作を起こす治療法です。特に重症うつ病や治療抵抗性うつ病などに対して、高い抗うつ効果を示すことが知られています。
ケタミンとECTでは、治療の方法も、最初に作用すると考えられている仕組みも大きく異なります。
それにもかかわらず、いずれも比較的速やかに大きな抗うつ効果を示すことがあります。
そこで研究者らは、異なる入口から始まった二つの治療が、その後の脳内では共通する変化を引き起こしているのではないかと考えました。
その候補として調べられたのが、5-HT1B受容体だったのです。
研究方法|PETを使って治療前後のセロトニン1B受容体を調べた
今回の研究は、新たに患者さんを募集してケタミンやECTを実施した臨床試験ではありません。
スウェーデン、日本、デンマークの3つの研究施設で過去に取得されたPETデータをまとめ、改めて統計解析した研究です。
解析されたデータ全体には、222回分のPET測定が含まれていました。
このうち、うつ病の治療前後を比較できた患者さんには、ケタミン治療を完了した19人、偽薬として生理食塩水の投与を受けた10人、ECTを完了した13人が含まれていました。ケタミン研究では、ラセミ体ケタミン0.5 mg/kgが静脈内投与されています。
PETでは何を調べているのか
PETは「陽電子放出断層撮影」と呼ばれる検査です。
ごく少量の放射性物質を含む検査薬を体内に投与し、その物質が脳内のどこに、どの程度存在するのかを画像として測定します。
今回使用されたのは、[11C]AZ10419369という5-HT1B受容体に結合する物質です。
この物質が脳内でどの程度5-HT1B受容体に結合できるかを調べることで、治療前後で5-HT1B受容体の「結合可能性」がどのように変化したのかを推定できます。
ここで注意したいのは、PETで結合が増えたからといって、単純に「5-HT1B受容体の個数が同じだけ増えた」と解釈できるわけではないことです。
PETで測定される値には、受容体の数だけでなく、受容体がどの程度利用できる状態にあるか、検査薬がどの程度結合できるかなど複数の要素が関係します。
したがって今回の結果は、より正確には「治療後に5-HT1B受容体へのPET検査薬の結合が増加した」と理解する必要があります。
結果|ケタミン治療後にはセロトニン1B受容体の結合が6.4%増加した
研究者らが脳の複数の領域をまとめて解析したところ、ケタミン治療後には、5-HT1B受容体の結合が平均6.4%増加していました。
一方、生理食塩水を投与したプラセボ群では、変化は−0.7%でした。
つまり、プラセボ群では治療前後でほとんど変化がみられなかったのに対して、ケタミン群では5-HT1B受容体結合が明確に増加する方向へ変化していました。
研究者らの統計解析でも、ケタミンによる変化はプラセボによる変化と統計学的に区別できると判断されました。
興味深いのは、この変化が一つの脳領域だけに限られていなかったことです。
今回調べられた脳領域では全体として同じ方向の変化が認められ、ケタミン後の5-HT1B受容体結合の増加は比較的広範囲に生じていました。
これは、ケタミン投与後にセロトニン系の一部分だけが局所的に変化するのではなく、脳内のセロトニンシステムに比較的広い変化が生じている可能性を示す結果です。
結果|ECTでもセロトニン1B受容体の結合が9.3%増加した
さらに興味深い結果が、ECTを受けた患者さんでも認められました。
ECT後には、5-HT1B受容体結合が平均で9.3%増加していました。
ケタミンの6.4%と比較すると数値上はECTの方が大きく、解析上もECTの変化がケタミンより大きい方向を示していました。
ECTでは脳領域による違いも大きかった
ケタミン後の5-HT1B受容体結合の増加は、調べられた脳領域の間で比較的均一でした。
これに対し、ECTでは脳領域によって変化の大きさにやや違いがみられました。
特に海馬ではECTによる平均的な変化より大きく、前頭皮質では平均より小さい傾向が示されています。
これは、全身の血流によって薬剤が脳全体に届くケタミンと、電気刺激によって脳活動を変化させるECTでは、その後に生じる脳内変化の空間的なパターンが異なる可能性を示しています。
結果|受容体の変化が大きい人ほど、うつ症状が改善したわけではなかった
今回の研究を理解するうえで、非常に重要な結果があります。
それは、5-HT1B受容体結合の増加量と、一人ひとりのうつ症状の改善量との間には明確な関連が認められなかったことです。
ケタミンやECTを受けた患者さんでは、全体としてうつ症状の大きな改善が認められていました。しかし、「5-HT1B受容体結合が特に大きく増えた患者さんほど、うつ症状も大きく改善した」という関係は確認できませんでした。
この点は、研究結果を過大に解釈しないために重要です。
今回の研究から、
「ケタミンによって5-HT1B受容体結合が増える」
ということは示唆されます。
しかし、
「5-HT1B受容体結合が増えるから、うつ病が改善する」
ところまでは証明されていません。
両者は似ているように見えますが、医学研究では大きな違いがあります。
たとえば、ある治療によって発熱が改善したとき、同時に心拍数も低下したとします。この場合、心拍数の低下は治療によって起きた変化ではありますが、それ自体が発熱を治しているとは限りません。
今回確認された5-HT1B受容体の変化についても、これと似た可能性があります。
考察|ケタミンとECTは異なる治療でも、セロトニン系では共通した変化に行き着く可能性がある
今回の研究で特に興味深いのは、ケタミンとECTという全く異なる治療によって、同じ方向の変化が確認されたことです。
ケタミンでは5-HT1B受容体結合が6.4%増加し、ECTでは9.3%増加しました。
しかも、いずれも限られた一つの脳領域だけではなく、調べられた脳領域全体で増加する方向の変化が確認されました。
「ケタミンはセロトニンを増やす薬」という意味ではない
ここで注意したいのは、この研究をもとに「ケタミンは実はセロトニン系の薬だった」と考えるのは適切ではないことです。
ケタミンの最初の薬理作用として重要なのは、あくまでNMDA受容体の遮断です。
しかし、脳の中では、一つの受容体への作用から始まった変化が次々と別のシステムへ伝わっていきます。
ケタミンによってグルタミン酸系の働きが変化し、神経細胞内のシグナル伝達や神経可塑性が変化し、さらにそれらと相互作用するセロトニン系にも変化が生じる、というように考えることができます。
そのため、ケタミンの作用機序は、
「NMDA受容体を遮断するから効く」
という一段階だけで理解するよりも、
NMDA受容体への作用を起点として、複数の神経伝達系や神経回路に連鎖的な変化が広がっていく
と考えた方が実際の脳に近い可能性があります。
ケタミンとECTに共通する「下流の変化」の可能性
研究者らが注目しているのもこの点です。
ケタミンとECTは、治療としての入口は大きく異なります。
それにもかかわらず、どちらの治療後にも5-HT1B受容体結合の増加が認められました。
このことから、5-HT1B受容体の変化はケタミン特有の現象というよりも、速やかな抗うつ作用を示す治療によって生じる共通した「下流の変化」の一つである可能性があります。
「下流」とは、治療が最初に作用する場所そのものではなく、その影響が脳内を伝わった結果として後から生じる変化という意味です。
研究者らも、5-HT1B受容体の変化と症状改善量が個人レベルでは関連していなかったことなどから、今回観察された変化について、治療によって生じたセロトニン系の変化に続いて起こる下流の現象である可能性を考察しています。
従来型の抗うつ治療とは違う変化である可能性もある
今回の論文では、過去の研究との比較についても考察されています。
SSRIであるエスシタロプラムや認知行動療法では、脳幹の一部において5-HT1B受容体結合が低下したという過去の報告があります。
これに対し、今回解析されたケタミンとECTでは、調べられた脳領域で広く結合が増加する方向へ変化していました。
この違いが、従来型抗うつ薬とケタミン・ECTの効果が現れるまでの時間の違いに直接関係しているのかは、まだ分かりません。
しかし、うつ病の治療では、どの治療法でも同じようにセロトニン系が変化するわけではなく、治療法によって変化の仕方が異なる可能性が示されています。
これは、「うつ病=セロトニン不足」「抗うつ治療=セロトニンを増やす」といった単純な図式では、うつ病やその治療を十分に説明できないことを示す一例ともいえます。
この研究の限界|セロトニン1B受容体の増加だけでケタミンの作用機序は説明できない
今回の研究は、ケタミンとECTという異なる治療後に共通するセロトニン系の変化を示した点で興味深い研究ですが、いくつかの限界があります。
まず、治療前後の比較に使用できた人数はそれほど多くありません。
治療を完了した患者さんは、ケタミン群が19人、プラセボ群が10人、ECT群が13人でした。
今回の研究では複数施設から集められた222回のPET測定を統合し、ベイズ統計を用いた方法によって解析精度を高めていますが、治療群そのものの人数が比較的小さいという点は変わりません。
また、ECTには独自のプラセボ群がありませんでした。
ECT後の変化と比較されたのはケタミン研究に参加していたプラセボ群であるため、「もし偽ECTを行った場合にも、ケタミン研究のプラセボ群と同程度の変化しか起こらない」という前提を置いた探索的な比較になります。
さらに、PETで測定した5-HT1B受容体の「結合」が増加した理由も、この研究だけでは完全には分かりません。
PETで得られる結合の値は、単純な受容体の数そのものではありません。
したがって、
「ケタミンによって5-HT1B受容体そのものが6.4%増えた」
と解釈することはできません。
同様に、PETの結果だけから「脳内のセロトニンが何%増えた」と判断することもできません。
そして最も重要なのは、5-HT1B受容体結合の変化と症状改善の大きさとの関連が認められなかったことです。
したがって現時点では、5-HT1B受容体の変化を「ケタミンが効く人を予測する検査」や「治療効果を示すバイオマーカー」として使用できるわけではありません。
今回の研究が示しているのは、ケタミン治療後の脳内で起こっている変化の一端です。
その変化が抗うつ効果を生み出すために必要な仕組みなのか、治療によって脳の状態が変わった結果として生じる現象なのかについては、今後さらに研究する必要があります。
まとめ|ケタミン治療後の脳ではセロトニン系にも変化が起きている可能性がある
今回の研究では、3施設から集められたPETデータを再解析した結果、ケタミン治療後には脳内の5-HT1B受容体結合が平均6.4%増加していました。
プラセボでは**−0.7%とほとんど変化しておらず、ケタミンとプラセボの変化量の差は7.1%**でした。
さらにECT後にも、5-HT1B受容体結合が平均9.3%増加していました。
ケタミンとECTは、治療方法も最初に作用する仕組みも大きく異なります。それにもかかわらず、いずれの治療後にもセロトニン1B受容体で同じ方向の変化が確認されたことは興味深い結果です。
一方、この変化が大きかった患者さんほど、うつ症状が大きく改善したわけではありません。
そのため今回の研究から、「5-HT1B受容体結合の増加がケタミンの抗うつ作用そのものである」と結論づけることはできません。
ケタミンはNMDA受容体に作用する薬ですが、その後に起こる脳内変化はグルタミン酸系だけで完結しているわけではないと考えられます。
グルタミン酸、セロトニン、神経可塑性、そしてそれらによって構成される神経回路など、複数のシステムが相互に影響しながら脳の状態が変化していく可能性があります。
今回の研究は、ケタミン治療後にはセロトニン系にも広い変化が生じている可能性を、人の脳をPETで調べることによって示した研究と位置づけるのが適切でしょう。
ケタミンがなぜ比較的速やかな抗うつ作用を示すのかについては、まだ分かっていない部分が多く残っています。今回確認された5-HT1B受容体の変化も、その複雑な作用機序を理解していくための一つの手がかりと考えられます。
参考文献
Matheson GJ, Lundberg J, Gärde M, Veldman ER, Tateno A, Ekman CJ, Arakawa R, Knudsen GM, Okubo Y, Ogden RT, Tiger M. Convergent increases in serotonin 1B receptor binding following ketamine and electroconvulsive therapy: a multi-centre bayesian re-analysis of PET data. Molecular Psychiatry. Advance online publication. 2026.