はじめに
近年、うつ病をはじめとする精神疾患の治療において、「ケタミン療法」という言葉を耳にする機会が増えています。特に、従来の抗うつ薬では十分な改善が得られなかった方、希死念慮が強く早急な症状緩和が必要な方、何年も治療を続けても抑うつ状態から抜け出せない方に対して、新しい選択肢として注目されています。
ただし、ケタミンは突然現れた新薬ではありません。もともとは麻酔薬・鎮痛薬として長く使われてきた薬剤です。日本でも「ケタラール®」という名称で、手術、検査、処置時の全身麻酔や麻酔導入に用いられてきました。つまり、ケタミンは「精神科で使われるようになった新しい薬」というよりも、「長い臨床使用の歴史を持つ薬が、精神科領域で再評価されている」と理解する方が正確です。
では、なぜ麻酔薬として知られていたケタミンが、うつ病治療の分野で注目されるようになったのでしょうか。その理由は、大きく分けて二つあります。第一に、従来の抗うつ薬とは異なる仕組みで脳に作用することです。第二に、効果が現れるまでの時間が非常に短い可能性が示されてきたことです。本記事では、ケタミンの歴史、精神科領域での再評価、既存の抗うつ薬との違い、そして即効性がなぜ重要なのかについて、患者さんにも理解しやすいように解説します。
ケタミンの歴史
ケタミンは1960年代に開発された薬剤です。薬理学的には「解離性麻酔薬」と呼ばれます。解離性麻酔とは、意識や身体感覚が一時的に変化するような麻酔状態を指します。通常の全身麻酔では、意識が深く低下し、眠っているような状態になります。一方、ケタミンによる麻酔では、外界とのつながりや身体感覚が通常とは異なる形で切り離されたような状態が生じるため、「解離性」という言葉が使われます。
ケタミンは、呼吸や循環への影響が少ない麻酔薬として、手術、救急医療、小児医療で使われてきました。また、十分な医療設備を確保できない戦場での鎮痛薬として現在も使用されています。日本では1970年に「ケタラール®」として販売が開始され、その後長年にわたり医療現場で使用されてきました。精神科で注目される前から、ケタミンはすでに麻酔薬として確立した歴史を持っていたのです。
精神科領域での再評価
ケタミンが精神科領域で大きく注目されるきっかけになったのは、2000年代以降の臨床研究です。特に重要なのが、うつ病患者に対して低用量のケタミンを投与したところ、短時間で抑うつ症状が改善したという報告です。
ここで「低用量」という言葉について補足します。精神科領域で研究されているケタミン療法では、手術麻酔で用いる量よりも少ない量が使われることが一般的です。たとえば多くの研究では、体重1kgあたり0.5mgを40分ほどかけて点滴する方法が用いられてきました。これは麻酔そのものを目的とする投与量とは異なり、抗うつ効果や希死念慮への効果を検討するための用量です。
2000年のBermanらの研究では、うつ病患者にケタミンを投与したところ、25項目版ハミルトンうつ病評価尺度が72時間以内に平均14点低下しました。一方、プラセボ投与では平均0点の変化でした。ハミルトンうつ病評価尺度とは、医師や評価者が、抑うつ気分、不眠、罪責感、身体症状、不安などを点数化して、うつ病の重症度を評価するための尺度です。点数が高いほど症状が重いことを意味し、14点の低下は臨床的にも大きな変化と考えられます。
その後、2006年のZarateらの研究では、治療抵抗性うつ病の患者にケタミンを投与したところ、投与後110分の時点でプラセボよりも明らかな改善が認められました。治療抵抗性うつ病とは、一般に、複数の抗うつ薬を十分な量・十分な期間使用しても、十分な改善が得られないうつ病を指します。つまり、通常の治療では改善しにくい患者さんに対しても、ケタミンが短時間で効果を示す可能性が示されたのです。
このような研究結果から、ケタミンは単なる麻酔薬ではなく、気分症状に対して短時間で変化をもたらす可能性のある薬剤として再評価されるようになり、「気分障害研究の歴史において、過去60年間で最も大きな発見、あるいは精神医学分野ではクロルプロマジン(最初の統合失調症治療薬)以来の発見」と呼ばれることもあります。
既存の抗うつ薬との違い
従来の抗うつ薬の多くは、「モノアミン」と呼ばれる神経伝達物質に作用します。代表的なものとして、セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンがあります。SSRIは主にセロトニン、SNRIはセロトニンとノルアドレナリンに関わる薬です。これらの薬は、脳内の神経伝達のバランスを調整することで、抑うつ症状や不安症状を改善することを目指します。
従来の抗うつ薬は、多くの患者さんにとって重要な治療選択肢です。しかし、効果が現れるまでに数週間を要することがあります。服用を開始しても、すぐに気分が改善するわけではなく、2週間、4週間、場合によってはそれ以上の期間をかけて効果が出現します。また、最初の薬が十分に効かない場合には、薬の変更や増量、その他の薬剤の併用療法などを検討する必要があります。そのため、患者さんにとっては「効くかどうかを待つ時間」が長くなることがあります。
一方、ケタミンは主にグルタミン酸系、特にNMDA受容体と呼ばれる仕組みに作用すると考えられています。NMDA受容体は、神経細胞同士の情報伝達や可塑性に関わります。可塑性とは、脳が経験や環境に応じて変化する力のことです。うつ病では、慢性的なストレスや炎症、睡眠障害などの影響により、神経回路の柔軟性が低下している可能性があります。ケタミンは、この神経回路の硬直を一時的にゆるめ、脳が変化しやすい状態を作る可能性があると考えられています。
また、ケタミンはBDNFという物質の働きにも関与するとされています。BDNFは「脳由来神経栄養因子」と呼ばれ、神経細胞の成長、維持、つながりの形成に関わる物質です。患者さん向けに言えば、BDNFは脳の神経細胞が健康なつながりを保ち、新しい学習や回復を支えるための栄養のような役割を持つと考えると理解しやすいでしょう。
このように、ケタミンは従来の抗うつ薬とは異なる方向から、脳の神経回路に働きかける可能性があります。そのため、これまでの抗うつ薬で十分な効果が得られなかった患者さんに対しても、新しい治療選択肢となる可能性があるのです。
ケタミンの即効性が注目されている
ケタミン療法が注目される最大の理由の一つは、効果発現の速さです。うつ病の治療では、数週間単位で効果を見ていくことが一般的です。しかし、患者さんの状態によっては、「数週間待つ」こと自体が大きな負担になります。
たとえば、強い抑うつ気分、希死念慮、耐えがたい不安、身動きが取れないほどの意欲低下がある場合、数週間という時間は非常に長く感じられます。特に希死念慮が強い場合には、できるだけ早く苦痛を下げることが重要になります。ケタミンは、このような状況において、短期間で症状を緩和する可能性がある治療として研究されてきました。
反復投与についても研究が進んでいます。2013年のMurroughらの反復投与研究では、治療抵抗性うつ病の患者にケタミンを複数回投与したところ、初回投与2時間後のMADRSが平均18.9点低下し、研究終了時の反応率は70.8%でした。
MADRSとは、Montgomery-Åsberg Depression Rating Scaleの略で、うつ病の重症度を評価する代表的な尺度の一つです。悲しみ、緊張、睡眠、食欲、集中力、意欲、悲観的思考、自殺念慮などを評価します。点数が高いほど症状が重く、治療によって点数が下がるほど改善を意味します。「50%以上改善」という表現は、治療前の点数から半分以上低下したことを意味し、臨床研究では「反応あり」と判断する目安としてよく使われます。
一方で、効果が永続するわけではなく、反応した患者さんの再燃までの中央値は最終投与後18日でした。中央値とは、データを順番に並べたときの真ん中の値です。つまり、反応した人の半分は18日以内に再び症状が悪化し、半分は18日より長く効果が続いたという意味です。
この結果は、ケタミン療法の重要な特徴を示しています。すなわち、ケタミンは短時間で大きな改善をもたらす可能性がありますが、それだけで長期的な回復が完成するわけではないということです。即効性は大きな利点ですが、再発予防、生活リズムの回復、心理的課題への取り組み、薬物療法や精神療法との組み合わせなど、長期的な治療設計が必要になります。
ケタミン療法の限界と注意点
ケタミン療法は有望な治療ですが、万能ではありません。まず、すべての患者さんに効果があるわけではありません。研究では高い反応率が報告されていますが、反応しない方もいます。また、効果が出たとしても、その持続期間には個人差があります。単回投与で長く改善が続く方もいれば、数日から数週間で再び症状が強まる方もいます。
次に、安全性の確認が重要です。ケタミン投与中には、血圧や脈拍の上昇、吐き気、めまい、眠気、現実感の変化、解離感、不安感などが生じることがあります。また、幻覚や妄想などの精神病症状が強い方、躁状態がある方、重い心血管疾患がある方、物質使用の問題がある方などでは、慎重な判断が必要です。
さらに、ケタミンは乱用リスクのある薬剤でもあります。医療管理下で適切に使う場合と、自己判断で使用する場合はまったく異なります。精神科治療としてのケタミン療法は、診断、適応判断、投与中の観察、投与後のフォロー、長期的な治療計画を含めて行うべきものです。「効く可能性があるから使う」のではなく、「どのような患者さんに、どの目的で、どのように安全に使うか」を慎重に考える必要があります。
おわりに
ケタミン療法が注目されている背景には、単なる流行以上の意味があります。ケタミンは、従来の抗うつ薬とは異なるグルタミン酸系に作用し、治療抵抗性うつ病や強い抑うつ状態に対して、短時間で症状を緩和する可能性を示してきました。2000年以降の研究では、ハミルトンうつ病評価尺度、MADRSなどの評価尺度で、具体的な点数低下が報告されています。
一方で、ケタミン療法は「一度受ければすべてが解決する治療」ではありません。即効性は大きな利点ですが、効果の持続、再発予防、安全性、依存リスク、精神療法との組み合わせなどを含めて考える必要があります。むしろケタミン療法の本当の意義は、強い苦痛で動けなくなっている状態に一時的な変化の窓を開き、その後の治療や回復につなげていく点にあります。
今後、ケタミン療法は精神科医療の中でさらに研究が進み、適応や安全性、最適な投与方法、精神療法との組み合わせについて理解が深まっていくと考えられます。患者さんにとって大切なのは、過度に期待しすぎることでも、危険な治療として一律に避けることでもありません。歴史、効果、限界、安全性を正しく理解したうえで、自分にとって適切な治療選択肢となりうるかを、検討していくことが重要です。
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