はじめに

ケタミン療法が注目されている大きな理由の一つは、従来の抗うつ薬とは異なる仕組みで、比較的短い時間のうちに抑うつ症状や希死念慮を軽減する可能性が示されてきたことです。一般的な抗うつ薬の多くは、セロトニンやノルアドレナリンなどの「モノアミン」と呼ばれる神経伝達物質に作用します。一方、ケタミンは主にグルタミン酸系、とくにNMDA受容体という仕組みに関わる薬剤として理解されています。

ただし、ケタミンの作用を「NMDA受容体をブロックする薬」とだけ説明すると、少し単純化しすぎです。近年の研究では、ケタミンは分子レベルでは神経可塑性を高め、脳の広いネットワークレベルでは過度に固定化した情報処理のパターンをゆるめる可能性があると考えられています。この記事では、ケタミン療法の作用メカニズムを、細胞や受容体の「ミクロな視点」と、脳内ネットワークの「マクロな視点」の両方から整理して解説します。

ケタミンの効果はどのように示されてきたのか

作用メカニズムの話に入る前に、まず臨床研究でどの程度の効果が報告されてきたのかを確認しておきます。

2000年のBermanらの研究では、大うつ病の患者7名を対象に、ケタミン0.5mg/kgの点滴と生理食塩水を比較しました。この研究では、25項目ハミルトンうつ病評価尺度、つまり医師が抑うつ気分、不眠、食欲、罪責感、身体症状などを点数化する評価尺度が用いられました。その結果、ケタミン投与後には25項目HAM-Dが平均14点低下したのに対し、偽薬では平均0点の変化でした。人数は少ない研究ですが、「数週間ではなく、数時間から数日の単位で症状が動く可能性」を示した点で重要でした。

このような即効性は、ケタミンの作用を考えるうえで非常に重要です。なぜなら、従来の抗うつ薬のように「神経伝達物質の量が少しずつ変わり、その結果として数週間後に症状が改善する」という説明だけでは、ケタミンの数時間単位の変化を十分に説明できないからです。

ミクロな作用①:NMDA受容体の阻害作用

ケタミンの代表的な作用は、NMDA受容体を阻害することです。NMDA受容体は、グルタミン酸という神経伝達物質が働くための受容体の一つです。グルタミン酸は、脳の中で情報を伝える主要な神経伝達物質で、学習、記憶、注意、感情の調整など、脳が柔軟に働くために不可欠な物質です。

うつ病では、単に「気分を明るくする物質が足りない」というだけでなく、ストレスによって前頭前皮質や海馬などの神経細胞のつながりが弱くなり、情報処理の柔軟性が落ちるという見方があります。DumanとAghajanianは2012年の総説で、うつ病をシナプス機能不全の病態として捉え、慢性的なストレスによって神経細胞同士の接点であるシナプスが弱まり、それが気分、意欲、認知の問題につながる可能性を論じました。

ここで重要になるのが、ケタミンが神経活動を抑えるのではなく、むしろ一過性にグルタミン酸の放出を増やし、その後の回復過程を促すと考えられている点です。ここで、受容体を「阻害」するはずのケタミンが、どうしてグルタミン酸の放出を増やすのかという疑問が生じたと思います。よく知られている仮説では、ケタミンは主にGABA作動性介在ニューロン上のNMDA受容体を阻害するからだとされています。GABA作動性介在ニューロンは、脳の活動にブレーキをかける役割を持つ細胞です。そのブレーキがケタミンの阻害作用によって一時的に弱まることで、グルタミン酸の放出が増えます。

グルタミン酸の信号が強まると、その下流でBDNFという物質が関与します。BDNFは「脳由来神経栄養因子」と訳され、神経細胞の成長、維持、修復、シナプス形成に関わるタンパク質です。患者さん向けに言えば、BDNFは脳内で神経細胞同士のつながりを保ち、新しいつながりを作りやすくする「栄養」のようなものです。これにより神経可塑性が高まるとされています。

神経可塑性とは、脳が経験や環境に応じて変化する力を意味します。たとえば、新しいことを学ぶ、つらい記憶に対する感じ方が変わる、行動パターンを少しずつ変える、といった過程には神経可塑性が関わります。うつ病では、否定的な自己評価、反芻思考、回避行動などが固定化しやすくなります。これは心理的な癖であると同時に、脳の回路が同じ方向へ繰り返し働きやすくなっている状態とも考えられ、神経可塑性が高まることで、このうつ病の症状に変化が生じやすくなる可能性があります。

実際、Liらの2010年の動物研究では、ケタミンによる速効性の抗うつ様作用に、神経可塑性が関与することが示されました。これは動物研究であり、そのまま人間の治療効果に置き換えることはできません。しかし、ケタミンの効果が単に「一時的に気分を高揚させる」だけではなく、脳が変化しやすい状態を作る可能性を示す重要な知見です。

しかし、ケタミン療法を「点滴を受ければ自動的に考え方が変わる治療」と理解するのは適切ではありません。むしろ、考え方が少し柔らかくなったタイミングで、これまで固まっていた考え方や行動パターンを見直しやすくなる治療と考える方が実際に近いでしょう。だからこそ、治療前後の診察や精神療法が重要になります。

ミクロな作用②:μオピオイド受容体への作用

一方で、近年は「ケタミンの抗うつ効果はNMDA受容体だけで説明できるのか」という議論もあります。ケタミンにはNMDA受容体以外にも多様な薬理作用があり、代謝産物も含めて複雑に働く可能性があるからです。

特に注目されているのが、μオピオイド受容体との関係です。オピオイド受容体は、痛みの調整や報酬、多幸感などに関わる受容体です、依存性に深く関わる受容体として知られています。2018年のWilliamsらの研究では、オピオイド受容体を遮断するナルトレキソンという薬をケタミン投与前に使用すると、ケタミンの急性抗うつ効果が弱まる可能性が示されました。2025年のLevinsteinらの総説でも、NMDA受容体とオピオイド受容体の相互作用を含めて、ケタミンの薬理を再定義する必要性が論じられています。

ケタミンの抗うつ作用が、μオピオイド受容体作用による効果なのかは、まだ結論が出ていません。臨床的には、依存リスクや乱用リスクを過小評価せず、適応、投与間隔、投与量、併用薬、患者さんの背景を慎重に評価する必要があります。同時に、オピオイド受容体との関係を理由に、ケタミンの抗うつ効果を単純に「多幸感を感じているだけ」と否定するのも早計です。現時点では、ケタミンはNMDA受容体、BDNF、オピオイド系などが複雑に関わる治療と理解するのが妥当です。

うつ病は脳内ネットワークの機能不全でもある

次に、脳全体の視点から考えてみます。かつてはうつ病の原因の脳部位を特定しようと研究がなされていましたが、近年の精神医学では、うつ病を一つの脳部位の異常としてではなく、複数の脳領域が作るネットワークのバランスの問題として捉える見方が強くなっています。

代表的な脳内ネットワークが、デフォルト・モード・ネットワーク、サリエンス・ネットワーク、セントラル・エグゼクティブ・ネットワークです。

デフォルト・モード・ネットワーク、略してDMNは、自分について考えたり、過去や未来を思い浮かべたりするときに働きやすいネットワークです。主に後部帯状皮質(PCC)、内側前頭前皮質(mPFC)、角回などから構成されます。うつ病では、DMNが過剰に働くことで、反芻思考や否定的な自己評価が続きやすくなると考えられています。

セントラル・エグゼクティブ・ネットワーク、略してCEN、またはフロントパリエタル・ネットワーク、略してFPNは、考えを整理し、計画を立て、行動を選ぶときに働きます。主に背外側前頭前皮質(DLPFC)や頭頂葉領域から構成されます。うつ病で「何をすべきか分かっているのに動けない」「考えがまとまらない」と感じる背景には、このネットワークの働きにくさが関係している可能性があります。

サリエンス・ネットワークは、略してSNは、「今、何に注意を向けるべきか」を判断するネットワークです。主に前部島皮質や前帯状皮質から構成されます。2014年のManoliuらの研究では、大うつ病患者において右前部島皮質を含むサリエンス・ネットワーク内の結合低下が、HAM-DやBDIで測定されるうつ症状の重さと関連していました。HAM-Dは医師が評価するうつ病尺度、BDIは患者さん自身が記入する自己評価式の尺度です。つまり、注意の切り替えを担うネットワークの不調が、症状の重さと関係する可能性が示されたのです。

マクロな作用:ケタミンは脳内ネットワークを変化させる可能性がある

さて、ケタミン療法の脳画像研究では、ケタミンがこれらのネットワークの結合性を変化させる可能性が示されています。ここでいう結合性とは、脳の離れた領域同士がどの程度連動して活動しているかを表す指標です。強ければよい、弱ければ悪いという単純なものではなく、状況に応じて柔軟に切り替わることが重要です。

2025年のLinらの研究では、治療抵抗性うつ病患者を対象とした2つの安静時fMRI臨床試験のデータを用いて、DMN、SN、FPNをグラフ理論という方法で解析しました。グラフ理論とは、脳領域を「点」、領域同士の結びつきを「線」として、ネットワーク全体のまとまり方を調べる方法です。この研究ではケタミンの投与3日後に、上述の3つの脳内ネットワークで、結合性指標の変化が報告されました。また、同研究では、MADRS総点の症状低下率がケタミン0.2mg/kg群で37.1%、ケタミン0.5mg/kg群で32.6%でした。MADRSとは、悲しさ、緊張、睡眠、食欲、集中力、希死念慮などを評価するうつ病の症状の尺度です。

ケタミン療法は「脳を変えるきっかけ」を作る治療

以上をまとめると、ケタミン療法の作用は一つの受容体や一つの脳部位だけで説明できるものではありません。ミクロな視点では、NMDA受容体、BDNF、μオピオイド受容体などを介して、神経可塑性やシナプス形成に関わる可能性があります。マクロな視点では、DMN、サリエンス・ネットワーク、フロントパリエタル・ネットワーク、報酬系ネットワークのバランスを変化させ、反芻思考、注意の固定化、意欲低下をゆるめる可能性があります。

ただし、神経可塑性が高まることは、それだけで自動的によい方向へ変わることを意味しません。脳が変化しやすい時期に、どのような環境で過ごし、どのような考え方を見直し、どのような行動を試すかが重要です。ケタミン療法を、薬剤投与だけで完結する治療ではなく、診察、心理的理解、生活の再構築と組み合わせて考える必要があるのはこのためです。

ケタミンは、うつ病や治療抵抗性うつ病に対する新しい選択肢として大きな可能性を持っています。一方で、効果の持続期間、反復投与の安全性、依存や乱用のリスク、どの患者さんに最も適しているかについては、今後も慎重な検討が必要です。ケタミン治療を理想化するのではなく、科学的根拠と限界の両方を理解したうえで用いることが、ケタミン療法を安全で意味のある治療にするために重要です。

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参考文献

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